2021年8月22日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(12)












この悲しみは、特に、なくてはならない人々を失った老人のものである

ヘーゲルは、一般的に終わったものから来る「悲しみ」(Trauer)について語っている

「有限性」(Endlichkeit)が絶対化される時、つまり、それが本当に真剣に受け止められる時、すでにいた人がいなくなるということは、決定的でどうしようもないものとして考えられる

悲しみについてモンテーニュは、「愛しもしないし、高く評価もしない」と言っている

しかし、憐憫の情は悲しい心である

モンテーニュは憐憫の情を経験している(この点で我々はそれをブッダに結びつけることができた)

「わたしが畑を与えないものから生きた動物を取ることは殆どない」

彼は狩猟が嫌いで、「防御の術もない、我々が何の攻撃を受けたわけでもない無垢な動物を追い、そして殺すのを不快感なしに見ること」ができない

降伏した鹿が「涙ながらに我々に慈悲を求める」姿は、「非常に不快な見世物」である

彼は、「人類の普遍的な義務は、命と感情を持つ動物だけに限らず、木々や植物にまで及ぶ」ことを認めている

なぜなら、「木々でさえ、加えられた攻撃に対して悲鳴を上げているように見えるからである」と彼は言っている

今日、我々は種が消滅するのを見ている

どうしてそこに悲しみを感じないことができようか

わたしはキジバトやアザラシやクジラなどを支持している

このように、有限なものが消えていくということは、悲しみなしにはないのである

ギリシア人が強く感じていた存在の生まれ持った憂鬱がある

「これが神々が哀れな死すべきものに紡ぐ運命である。悲しみに生きること。一方、神々はすべての心配事のないままである」とホメロスは書いている

種が消滅することは何と悲しいことだろうか

しかし、キジバトもアザラシもクジラも、我々にとって本質的なものではない

全ての人生を真に暗くする悲しみは、我々の愛が向かっていた唯一人のかけがえのない人の死や不在の悲しみである

我々が失うものは、まさしくその光、その日没、その木々と花のある世界である

我々はそれらの世界をその人と見ることに慣れていたので、その人がいないと、もうそれらを見ることができないのである






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