2021年8月13日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(5)


















久し振りにコンシュさんの「哲学の意味」に戻ってくることができた

また、ゆっくり読んでいきたい


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それにもかかわらず、形而上学的問題に関しては懐疑主義は正しいのである

それを望むか否かに関わらず、形而上学的懐疑主義は現代のすべての哲学者の共通の宿命である

しかし、我々は判断の停止に留まるつもりなのだろうか

哲学者はその解決法を知らないだろう

ここにいるのは本物の人間である哲学者である

哲学するということは人間存在と無縁ではない

あれではなくこれを食べるとか、他の仕事ではなくこちらをやるとか、ある政治的意見や宗教的信仰を持つという事実のように

なぜなら、肉を食べようが野菜を食べようが、金細工職人であろうが道路清掃人であろうが、共和国連合を支持していようが社会党のために活動しようが、キリスト教徒であろうがイスラム教徒であろうが、それでも我々は人間だからである

一方、哲学者でなくなった人間は、人間としての地位を失うことになり、植物や動物、あるいは神のようになるであろう

「人間にとって当然のことは、哲学することなしに生きることはしないことである」とわたしは書いた

わたしにはいつもそのように見える

ハイデッガーは非常にうまく言っている

我々は哲学について明確には何も知らないかもしれないが、我々はすでに哲学の中にいる。なぜなら、我々は長い間哲学している・・・という意味において、哲学は我々の中にあり、我々自身の一部を構成しているからである。人間としてここに在るということは、哲学することを意味しているのである。

実際、如何なる人間も生と死、あるいは人間についての何らかの考えを持たずに生きることをしない

この場合、そうと知らずに哲学者であるのと同じくらい、誠実に哲学している 

しかし理性が、一時的ではなく決定的な形で、決定不可能なものを前にしてどのように哲学すればよいのだろうか

懐疑主義の体制の中でどのように哲学すればよいのだろうか

それにもかかわらず、朝起き、ある人生が選択され、決断が行われるという単純な事実から、それは必要なのである






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