2021年8月21日土曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(11)

















純粋な仮象(見かけ)の哲学は、ピュロン主義である

厳密な意味において、それはピュロンの哲学である

「純粋な」見かけとは、一人の存在の見かけではない

なぜなら、見かけに帰着しない存在はないからである

見かけには本質がない

それは何を意味しているのか

例えば、庭のバラを考えてみよう

その連続する状態を通して変わらないバラの存在はあるだろうか

それはないーーそこには連続する状態しかない

しかし、わたしは60歳と30歳で変化したが、同じではないのか

わたしの中に永遠に変わらない根源的なもの、わたしの「魂」はないのだろうか

それについてどんな実験もしていないが、デイヴィッド・ヒュームが示したように、我々はそれを信じることはできる

しかし、ピュロン主義者はそれを信じない

ほんの短い間でわたしは変わるーー常に最もわたしに似ている人のままではいるのだが、、

人生は常に新しい瞬間から成っていて、他の波が消していく波のように、それぞれの瞬間は消えていく

確かに、波は覚えていないが、わたしは覚えている

そして、かつて在ったものをなかったことに、あるいは生きたことを生きなかったことには何ものもできない

なぜなら、ピンダロスが言ったように、「すべてのものことの父である時間でさえ、それを成し遂げることはできないのである」

人生における最良のことは、すでにあったことである

まさに、それらはあったのである

そして、彼らが愛した男、女はいないという考えが、まだ生きている人たちの人生を救いようのない悲しみで圧し潰す

純粋な見かけ、絶対的仮象

それは、何の本質も示さず、イメージ以外何も残さずに流れる人生である

ピンダロスは言う:「カゲロウ」、それが我々である、「人間は影の夢である」

ソポクレスは言う:「わたしは、ここに生きる我々すべては亡霊であり、微かな影に過ぎないことがよく分かる」

この文章は、モンテーニュがいつも目の前に見えるように、彼の書斎の梁間に刻ませたものである

人生は消えゆくものである

我々は愛された存在に出会う

そして、何が起こるか

ピンダロスは言う

「神々は人間の上に一条の光を向ける。輝かしい閃光が人間を包む。そして人生の時は蜜のように流れる」

しかし、幸福な日々には終わりがある

そして、愛された存在が最早いない時、人生は非常に悲しくなる

水のように流れるこの束の間の人生以外何もないので、救いはどこにもないのである








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