純粋な仮象(見かけ)の哲学は、ピュロン主義である
厳密な意味において、それはピュロンの哲学である
「純粋な」見かけとは、一人の存在の見かけではない
なぜなら、見かけに帰着しない存在はないからである
見かけには本質がない
それは何を意味しているのか
例えば、庭のバラを考えてみよう
その連続する状態を通して変わらないバラの存在はあるだろうか
それはないーーそこには連続する状態しかない
しかし、わたしは60歳と30歳で変化したが、同じではないのか
わたしの中に永遠に変わらない根源的なもの、わたしの「魂」はないのだろうか
それについてどんな実験もしていないが、デイヴィッド・ヒュームが示したように、我々はそれを信じることはできる
しかし、ピュロン主義者はそれを信じない
ほんの短い間でわたしは変わるーー常に最もわたしに似ている人のままではいるのだが、、
人生は常に新しい瞬間から成っていて、他の波が消していく波のように、それぞれの瞬間は消えていく
確かに、波は覚えていないが、わたしは覚えている
そして、かつて在ったものをなかったことに、あるいは生きたことを生きなかったことには何ものもできない
なぜなら、ピンダロスが言ったように、「すべてのものことの父である時間でさえ、それを成し遂げることはできないのである」
人生における最良のことは、すでにあったことである
まさに、それらはあったのである
そして、彼らが愛した男、女はいないという考えが、まだ生きている人たちの人生を救いようのない悲しみで圧し潰す
純粋な見かけ、絶対的仮象
それは、何の本質も示さず、イメージ以外何も残さずに流れる人生である
ピンダロスは言う:「カゲロウ」、それが我々である、「人間は影の夢である」
ソポクレスは言う:「わたしは、ここに生きる我々すべては亡霊であり、微かな影に過ぎないことがよく分かる」
この文章は、モンテーニュがいつも目の前に見えるように、彼の書斎の梁間に刻ませたものである
人生は消えゆくものである
我々は愛された存在に出会う
そして、何が起こるか
ピンダロスは言う
「神々は人間の上に一条の光を向ける。輝かしい閃光が人間を包む。そして人生の時は蜜のように流れる」
しかし、幸福な日々には終わりがある
そして、愛された存在が最早いない時、人生は非常に悲しくなる
水のように流れるこの束の間の人生以外何もないので、救いはどこにもないのである
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