2021年8月20日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(10)










それに対して、わたしは神や絶対的あるいは至高の存在という考えを遠ざけたので、モンテーニュとはこの点で違う立場を採り、存在そのもののニヒリズムを支持している

しかし、わたしはパルメニデスにコメントしたが、パルメニデスの εστι(esti)が、それ自体で在り、自力で存続するどの絶対的存在なのかわたしには分からないが、そのような絶対的存在を指しているのではなく、単に「在る」ことを意味している

「在る」ものについて言えば、それは個々の存在者(onta)である

しかし、これらの存在者は本当にそうなのか

この問いに対するわたしの答えは、モンテーニュの答え、すなわち個々の存在者のニヒリズムである

デカルトと異なりモンテーニュは、存在の問題を明確に問う

「存在」と言われるに値する存在とは何なのか

「在る」とは本当は何なのか

モンテーニュは問う

「なぜ我々は永遠の夜の無限の流れの中で閃光にしか過ぎないこの瞬間の存在ーーそれは我々の永遠の自然な状態の本当に短い中断なのだがーーという肩書を取るのだろうか。ーー実は、死がこの瞬間の前と後、そしてこの瞬間のかなりの部分を占めているのだが」

それは50年、あるいは80年かもう少し長い人生なのだろうか

無限の時の中では一瞬である

無限の時のすべての間、短い中断を除いて、我々はまだ存在していないか、もう存在していない

それは、我々の前と後の無限、エピクロスの非生命、ルクレティウスの永遠の死(mors aeterna)である

唯物論は死の哲学である

我々は唯物論に非常に近いところにいるーー魂の永遠もなければ、何かが生き残ることもないーー

非常に近いか、そこを超えてさえいる

なぜなら、モンテーニュがやった存在という考えを問うことを唯物論はしないからである

「これほど短い」時間しか生きないし、存在しない、これで本当に存在しているのか

自称「個々の存在者」が何らかの自分自身のアイデンティティを維持しているとしても、我々は常に変わっている

「一定の存在は何もない、我々の存在も物体の存在も」とヘラクレイトスと共にモンテーニュは指摘する

「そして、我々、我々の判断、すべての死すべきものは、休むことなく流れ、転がる」

結論は「我々は存在と全くコミュニケーションが取れていない」ということである

語るべきは「存在」ではなく、「漠然とした見かけと影」である









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