2021年8月1日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(3)
























今月もコンシュさんを読んでいきたい

今日のところにも重要なことが書かれてある


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もし phusis という言葉をギリシア的意味として、次のように理解すると仮定する

精神、歴史、自由というような他のものと対立するものとしての自然ではなく、全体としての現実、存在の現実として

そうすれば、自然を超えるものはなくなる

形而上学的なものは何もなくなり、形而上学の対象はなくなるのである

そもそもギリシア人にはこの言葉は存在しなかった

トマス・アクィナスにとっては、形而上学(metaphysica)は超自然的なものの科学であった

ということは、「自然」という言葉が全体としての現実を網羅している哲学においては、「形而上学」という言葉は姿を消さなければならないということなのか

しかし、自然には常に与件を超えたものが存在すること

それは、物理科学が到達できるだろうことを超えたものが常に存在するということである

ただ、それは phusis を超えたものにはならない

つまり、物理科学を超えたものは存在するが、現実のすべてを包摂するものとしての phusis を超えるものはない

この意味で、我々は常に「形而上学」を語ることができるのである



それでは、超自然的なものは存在するのかどうか、それは決めることができない

長きに亘り、それを決めることができると考えられてきた

一方で、超越絵的な神の存在と、少なくとも魂の永遠の可能性は「示された」

他方、説明すべきもの、すなわち世界、を説明するためには、自然の無限性に訴えるしかなく、魂は、自然のすべての産物と同様に、死すべきものであるいことが「示された」

しかし、形而上学においては証明は存在しない

いずれかの方法で議論できるだけである

「証明」を言う人は、証拠について言う

そして証拠とは、普遍的に説得力があり、すべての疑いを排除する方法で真実を確立するという特徴がある

形而上学には、そのようなものは全くない

もしあるとすれば、哲学者の間に平和が広がるだろう

証拠とは異なり、議論は可能性を確立し、蓋然性を強めることはあるかもしれないが、常に疑いを残す

例えば、有神論者が神が存在する「証拠」をいくつか出すのを見るが、実際にはそれは議論にしか過ぎない

なぜなら、もし「証拠」があるならば、一つで十分だからだ

他方、ルクレティウスは魂が死すべきものである「証拠」を30ほど出すのを見るが、それらを併せても説得力ある一つの証拠には適わない

それは一つで十分なのである

ダランベールは、「手の届かない」ところにないとしたら、 証明はその名に値しないと言った

形而上学において、手の届かないところにない、いかなる「証明」もなく、形而上学には証明はない

演繹あるいは弁証法の総合によるのかは別にして、証明すると主張して哲学者達は体系を打ち立ててきた

ダランベールによれば、システムとは「形而上学的問題についての哲学者たちの夢」である

ジャン・カヴァイエスもまた、「システムというこの夢」について語っている

そして、パスカルはデカルトをドン・キホーテに譬えたと言われる

(デカルトは自分が造った風車と闘った)

懐疑主義が真であると言ってもよいくらいだ

疑わしい懐疑主義は、一つの立場を適合しないもう一つの形而上学的立場の前に置いたままにする

聞いてみよう

神は存在する / 存在しない、魂は死ぬ運命にあるのか / そうでないか、世界は有限か / 無限か、などと続く










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