2021年8月26日木曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(16)


























今朝、外を見ると新しい訪問者を確認

声を掛けると、数分間姿勢を変えずにこちらを見ていた

しっかりと確認するという感じなのだが、一体何を考えていたのだろうか



今月から携帯を始めたが、特徴がいくつか見えてきた

まず、手のひらの中で文章を読むことになるため、パソコンの画面で見ていた時よりも親しみが増すことである

そのためだと思うが、これまでは読むのが嫌になっていた各種雑誌からのメールも抵抗なく読めるようになった

それから、動画とか音楽などの反応が素晴らしい

というのも、これまで短期の滞在だった家のネット環境が一番低いレベルにあったため違いが際立つのだろう



さて、今日もコンシュさんを少しだけ読むことにしたい


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他者が生きるため、あるいはより良く生きるために助けることに関することなので、勿論のことだが、死なせてはいけない

普通の人間になったかもしれない人がその日を迎えるのを妨げる中絶は、法的に正当化できない

キリスト教は1世紀から人工中絶を禁じてきた

ただ、宗教的な理由は信者にしか有効ではない

しかし、純粋に道徳的な理由は普遍的価値を持つ

「自然が苦労して母親のお腹から引き出し、光が広がる側に投げ出した瞬間から、子供は裸で地上に横たわっている。喋ることもできず、生きるための助けになるものを何一つ持つこともなく」

これはルクレティウスの言葉である

全ての理性的な人にとって、また彼にとって根本にある道徳的義務は子供に対する義務である

なぜなら、子供はこの上なく弱い存在だからだ

しかし、これから生まれる子供はさらに弱い

子供は生まれることになるのか、そうではないのか

母親あるいは子供が危険な状態になるか、苦境にある場合を除いて、わたしには死に追いやる決断を正当化する如何なる理由も見えない

わたしを知っている人はおそらく、わたしが余りにも直接の関心を持ち過ぎると言うだろう

実は、わたしの父方の祖母がわたしの父を身ごもった時、すでに子供がいたことと非常に貧しかったので中絶を望んだ

そうしたら、わたしの祖父は彼女にこう言ったという

「そんなことを言い続けるのなら、二度と家に足を踏み入れるには及ばない」

もし中絶が当時の習慣であったなら、わたしの父は存在しなかったし、わたしも同様である

従って、わたしはこの上なく興味を持っていることを認める

ただそうだからと言って、わたしは間違ってはいない







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