2021年8月18日水曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(9)












しかし、もし我々が神の概念を放棄すれば、崩壊するのは建物全体である

わたしは『哲学的オリエンテーション』の中で、有機的な全体性としての現実全体という考え、そして普遍的な秩序や感知される世界、勿論(神の)摂理という考えだけではなく、(絶対的)真理、人間(当然の権利としての人間)の真理、そして最後には存在という考えをどのようにして捨てなければならなかったを説明した

それが行き着いたところは、存在論的ニヒリズムであった

そこで何を理解しなければならないのだろうか

わたしは、個々の存在者(l'étant)のニヒリズムと存在それ自体(l'être)のニヒリズムとを区別したい

存在それ自体のニヒリズムは、絶対的存在の概念に照準を定めている

個々の存在のニヒリズムは、これやあれや、この机、この椅子の存在を対象としている

デルポイのアポローン神殿の入口(pronaos)に、有名な箴言の横に、最初は木製で、それから青銅になり、そしてアウグストゥスの時代にはついに金製になったE(エプシロン)があった

プルタルコスの対話篇『デルポイのEについて』では、プラトン派の哲学者アンモニオスが次のように解釈している

Eとは、εί「あなたは存在する」の最初の文字だろう

それは神への挨拶のやり方である

エウセビオスキュリロステオドレトスのような教父は、プルタルコスのこの箇所を引用した

エホバはモーゼに「わたしは存在する者である」と言わなかったか

これを現代風に解釈すれば、「わたしは本質が存在することである存在者である」となり、本質によって存在しているのではないために存在することができない有限の存在者とは異なる

モンテーニュは自身のインスピレーションからではなく、プルタルコスを書き写してこう書いたのは本当である

「神だけが存在する・・・神以外に真に存在するものはない」

モンテーニュのニヒリズムは、個々の存在者のニヒリズムである

なぜなら、神以外の存在は真に存在していないからである

しかしそれは、存在それ自体のニヒリズムではない






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