2021年8月17日火曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(8)















モンテーニュやデカルトは一人称で哲学する

わたしもそうやってみようではないか

わたしは不変ではない、明日は変わっているかもしれない政治的、経済的意見ではなく、わたしの「経験された確信」を語るようにしている

この確信は不変ではないがーーすべては不変ではないーーゆっくり進化し、わたしの人生の最後まで殆ど同じままでいる可能性が高い

昔、ここトゥールーズで「絶対」悪としての子供の苦しみについて語ったことがある

それは、わたしがどんな神の摂理とも相容れないと判断した悪ーー不幸ーーのことであった

議論には実証的価値がないことは認める

それを除けば、神の存在の問題はきっぱりと否定されて解決されるだろう

いずれにせよ、わたしにとってこの問題はケリがついたのである

さらに、神ーー超越的な神ーーの概念は暫くの間、空疎で対象のない概念に過ぎないものに見えたのである

宗教がなければ、その意味を見出すことは不可能だろう

神という概念は哲学的概念ではない

神が役割を担う哲学は不純な哲学である

真の哲学というよりは、そして多くの哲学的解析と議論がなされてはいるが、それは宗教的イデオロギーである

西洋では、それはキリスト教のイデオロギーになる

デカルトやカントの体系はこのようなものである






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