モンテーニュやデカルトは一人称で哲学する
わたしもそうやってみようではないか
わたしは不変ではない、明日は変わっているかもしれない政治的、経済的意見ではなく、わたしの「経験された確信」を語るようにしている
この確信は不変ではないがーーすべては不変ではないーーゆっくり進化し、わたしの人生の最後まで殆ど同じままでいる可能性が高い
昔、ここトゥールーズで「絶対」悪としての子供の苦しみについて語ったことがある
それは、わたしがどんな神の摂理とも相容れないと判断した悪ーー不幸ーーのことであった
議論には実証的価値がないことは認める
それを除けば、神の存在の問題はきっぱりと否定されて解決されるだろう
いずれにせよ、わたしにとってこの問題はケリがついたのである
さらに、神ーー超越的な神ーーの概念は暫くの間、空疎で対象のない概念に過ぎないものに見えたのである
宗教がなければ、その意味を見出すことは不可能だろう
神という概念は哲学的概念ではない
神が役割を担う哲学は不純な哲学である
真の哲学というよりは、そして多くの哲学的解析と議論がなされてはいるが、それは宗教的イデオロギーである
西洋では、それはキリスト教のイデオロギーになる
デカルトやカントの体系はこのようなものである
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