2021年8月24日火曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(14)




αρρεπώς(どちら側にも傾かず)

モンテーニュは、この無関心や平然としているところには止まらない

我々は、彼が不寛容、魔女裁判、司法問題、拷問、虐待、そしてあらゆる形の残忍さに対してどれだけ力強く発言することになるのかを知っている

確かに、善と悪、美と醜、正義と不正義の間には極端な違いがある

この領域では、我々は彼に従うことしかできない

しかし、ピュロンと共に、幸福を欲することは自然なことではないのだろうか

何のための人生か、幸せに生きるためではないのか

これはモンテーニュの答えでもあっただろう

しかし、わたしが始めるに当たって言ったように、哲学は真理を求めるもので、スピノザがどのように考えようが、幸福を求めるものではない

なぜなら、真理が必ずや悦びを齎すものと想定する権利は全くないからである

その上、アリストテレスによれば、喜びは活動の目的ではなく、「突然現れる目的のようなもの」で、幸福は特にそれを探していない時に得られるのと同様である

そして、哲学者の活動が齎すものの事情もこのようなものである

それは、哲学的探求の目的とは程遠いが、その条件である幸福のようなものである

それはしばしば、哲学者が省察や瞑想や自由な精神に専念することを可能にするある種の家庭的な幸福である

ベルクソンやヘーゲルやハイデッガー、あるいはおそらくソクラテスやプラトンがそうであったように、モンテーニュもこのような状態にあった

従って、わたしが理解しているように、哲学者の倫理は倫理や知恵や陶酔ではないだろう

わたしは寧ろ、「悲劇的な」知恵としたい

もしあらゆる「もの・こと」の必然的な消滅を信じるとすれば、ピンダロスが言ったように「変わりやすい流れが我々を押し流す」かもしれないが、まず生きるために、それからこの人生にできる限りの価値を与えるために、そして我々が幻想であり虚構であるすべてをご破算にすれば希望をなくす危険性がある真理に向き合うために断固とした決断こそが必要である

その上、死すべきものであることが知られている人生の基本的な調性は悲しみである

悲劇的で英雄的な知恵は、この悲しみが毎日、そして一日中乗り越えられるよう要求する

また、特に他者を考慮して、悲しくならないよう、喜びに理があるよう要求する

簡単に言うと、ニヒリズムの根底には知恵のカギである勇気がある






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