2021年8月25日水曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(15)











倫理以上のものではないこのニヒリズムは、道徳にまで及ぶことはないとわたしは言った

モンテーニュはピュロン主義の立場の限界をここに見ていた

なぜなら、我々自身の義務を疑うことができないからである

あるいは寧ろ、我々が疑うことができない義務があると言えるだろうか

道徳的義務はカントが見ていたように、無条件の命法の形を採る

もし他者がわたしだけができる救助を必要としていれば、その人を助けるというわたしの義務は、世界で最も疑う余地のないことである

もし川に溺れている子供をわたしが見たとし、わたしだけが助けることができるとすれば、それが夢の話で、デカルトのように、川の存在を疑うことはできるだろうが、子供を助け出さなければならない、あるいは助けるように努めなければならないということを疑う余地はない

当然のことだが、もし川の畔に他の人が一緒にいれば、救助の役目を負うのがわたしであることはすこし明確ではなくなる

各々はまず血縁あるいは友情の絆で結ばれている人に尽くす必要がある

その結果、彼らにとってかけがえのない人になる

しかし、イランの地震の犠牲者に救いの手を差し伸べなければならない

そう、この義務もまた無条件なのである

しかし、この場合の義務の主体は社会全体である

なぜなら、すべての人間にはすべての人間に連帯する義務があるからである

従って、特にお金を持っていない場合には、この義務は必ずしもわたしのものではない

これに対して、わたしの両親やわたしの友人のような人が、生き、あるいは死ぬのを助けるためにわたししかいないとしたら、その人を助ける義務は絶対的に「わたしの」義務であり、それは如何なる憐憫や愛情の感情とは関係なくその人自身によって課せられるものである

このような絶対的義務は、その人が全く知らない人であれ、わたしの敵であれ、存在し得るのである

1870年の普仏戦争の際、一人の女性が負傷したプロイセン人を助けた

その時、彼が自分の息子がしていたような時計を付けているのを見て、彼が息子を殺したのではないかと類推する

それでも彼女は治療できるのが自分だけでなくなるまで彼を治療したのである








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