わたしはそれを否定しない
人生を純粋な見かけ、すなわち癒すことのできない儚さに還元することーーなぜなら、モンテーニュが言ったように、永続性でさえ「活気のない揺れ以外の何ものでもない」のでーー
この見方は、人生の基本的な調性を悲しみの中に見るようにわたしを導く
悲しみを消すことは全くないまま、人生には喜びが加わる
しかし、この中では、わたしは最早ピュロン主義者ではない
全く反対に、わたしはピュロンから大きく遠ざかるのである
わたしが今説明しなければならないのは、この違いである
ピュロンのニヒリズムは単に個別の存在者と存在そのもののニヒリズムではなく、殆ど普遍的なニヒリズムである
それに対して、わたしは個々の存在者と存在それ自体のニヒリズムは支持するが、その他の点に関しては、できるかぎりニヒリストではないという違いがある
わたしは倫理、道徳、政治、美学、勿論、子供の教育のいずれについてもニヒリストではない
わたしは、ピュロンのニヒリズムは「殆ど」普遍的であると言った
なぜなら、本当のことを言えば、ピュロンは倫理のニヒリストではない
もう一度触れると、倫理あるいは智慧は、人生は何になるのかという問いに答える
一方の道徳は、われわれが他者に対してしなければならないことに関するものである
ピュロンは他者にしなければならないことは何もないと考える
彼は道徳のニヒリストである
しかし、「人生は何になるのか」という問いには、彼は幸福に生きることと答える
ピュロンによれば、幸福に至る簡単な道は無関心である
アジアでアレクサンドロス大王のお供をしたピュロンは、多くの人々の習慣を観察した
彼はそこから、パスカルが「ピレネー山脈の こちら側での真理が、あちら側では誤謬である」という有名なフォルミュールで表現することになる結論を引き出したのである
勿論、ピュロンはピレネー山脈があることは知らなかったのだが、、
ディオゲネス・ラエルティオスによれば、「ピュロンは美も醜も、正義も不正義もなく、同様にすべてのものことについて、何ものも真理ではないこと、すべての人間は約束事や習慣にしたがって行動すること、なぜなら、それぞれのものことは、これであるよりあれだということはないと主張した」
したがって、如何なる判断も、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、信用すべきではない
「判断なしで、どちら側にも傾かず、揺るがずにいるべきである」とピュロンの弟子のティモンは説明する
モンテーニュは、彼の「書斎」の梁間に αρρεπώς(どちらの側にも傾かず)という言葉を刻ませた
ティモンは続ける
「この資質から生まれるものは、まず失語症であり、続いてアタラクシアである」
アタラクシアとは、魂に「乱れ」のないこと、完璧な平穏、平静、幸福である
「美も醜も、正義も不正義もない」ので、美学のニヒリズム、道徳のニヒリズムと言うことができる
しかし、アタラクシアがその反対よりも価値があり、不幸より幸福が望ましいので、倫理のニヒリズムと言うことはできない
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