2022年2月28日月曜日
2月を振り返って
2022年2月27日日曜日
ハイデッガーの形而上学(20)
2022年2月26日土曜日
ハイデッガーの形而上学(19)
2022年2月25日金曜日
ハイデッガーの形而上学(18)
2022年2月24日木曜日
ハイデッガーの形而上学(17)
形而上学の伝統的な概念に内在する不一致
形而上学をスコラ学の教科として排除したことを考えれば、何の正当性をもって「形而上学」という名前を保持しているのか、それは同時にそこにどのような意味を与えているのかという問題に我々は関わり合っている
この言葉の歴史を通してその答えを探した
その歴史は何を我々に語ったのか
それは2つあった
最初の技術的な意味とその後の内容に関する意味である
最初の意味はさて置き、我々が哲学とは形而上学的問い掛けであるという時の2番目の意味で形而上学を考える
超感覚の知識に関する内容として形而上学は捉えられた
形而上学を単に「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)のタイトルとしてではなく、哲学そのものを表す言葉として理解している
ここで問題になるのは、「第一哲学」の真の理解から形而上学が解釈されたのか、形而上学(メタ)の内容から生まれた解釈に基づいて「第一哲学」が構想されたのかである
実際には後者で、形而上学は超感覚に関する知識とする第2の意味において捉えられた
これは我々の仮定とは異なっているかもしれない
我々が求めたのは、「第一哲学」の元々の理解から生まれた意味を手に入れてから名前を与えることである
つまり、内容から考えられた形而上学との関係で「第一哲学」を解釈するのではなく、アリストテレスの「第一哲学」で問題にされたことを解釈することにより、「形而上学」という表現を正当化することである
このような問いを出すということは、超感覚の知識としての形而上学は「第一哲学」の元々の理解から生まれたものではないという考えがベースにあることを意味している
そのための2つの根拠を示さなければならない
1つは、「第一哲学」の元々の理解がどのようにアリストテレスの中で得られるのか
2つは、形而上学の伝統的な概念がこの点で欠けていることである
最初の点を示すためには、我々自身が哲学それ自体のより根源的な問題点を展開していることが必要である
その後に初めて、「第一哲学」の、すなわち古代哲学の隠され、未だ発掘されていない基盤を照らし出す松明を持ち、そこで基本的に何が起こっているのかを決めることができるかもしれない
ここで、形而上学という伝統的な概念に内在する不一致について指摘しておきたい
形而上学の伝統的概念について、3つのことを主張する
1)形而上学は矮小化されている
2)形而上学は内在的に混乱している
3)形而上学は明示されるべきことの現実的な問題には関わらない
▣ これら3つの点については次回以降に論じる
2022年2月23日水曜日
ハイデッガーの形而上学(16)
2022年2月22日火曜日
ハイデッガーの形而上学(15)
2022年2月21日月曜日
ハイデッガーの形而上学(14)
今朝はなぜか早く目が覚めた
テレビを付けてみると、ロワール川の古城の映像が流れているではないか
以前に観たような気もしたが、わたしが住んでいたトゥール周辺の景色を空から眺めることにした
丁度、ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズが始まったところだった
それから、ブロア、シュノンソー、ヴィランドリー、アンジェ、ソミュール、ナントのブルターニュ大公城など
いずれも訪れた時の記憶が蘇ってきた
これを懐かしさと言うのだろうか
その時の経験は確かに記憶に蓄えられている
勿論、そこに身を置いた時の気持ちとは異なるのではあるが、
続いて、ドイツのフォーレ4重奏団の演奏が始まった
如何にもドイツ人という話し振りと言ってよいのだろうか
落ち着きと冷静さと明晰さがあり、ヨーロッパの一つの極を見る思いであった
それは演奏にも表れているように感じた
満ちた朝の時間となった
さて、今日もハイデッガーの声に耳を傾けることにした
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論理学、自然学、倫理学のスコラ的学科の形成と哲学するそのことの衰退
アリストテレスが哲学そのものに関して成し遂げたことは、それぞれの講義や論文集の中で我々に伝えられてきた
その中に、我々は哲学することについての新しいアプローチや試みを発見する
しかし、プラトンの対話篇にプラトン哲学のシステムがないように、後に考え出されたようなアリストテレスのシステムもない
アリストテレスは紀元前322-321に亡くなった
古代哲学はアリストテレスで頂点に達し、それ以降は下り坂を辿った
プラトンやアリストテレスについては、学派の形成が避けられなくなった
そこで何が起こったかというと、生き生きとした問い掛けがなくなったのである
それまで哲学的に把握されたことが、すでに明らかにされていること、有益な何か、応用可能な何か、誰でも学ぶことができるものとして扱われるようになってからは尚更である
元々のプラトン、アリストテレスの哲学に属していた全てが根こそぎにされ、最早根差した何かとしては理解されなくなる
全ての哲学が辿る運命ではあるが、それが学校の哲学になるのである
問題となるのは、最早その核心においても活力においても理解されることのない豊かな材料を整理する時の視点である
このスコラ的な整理をする際の視点は、すでに明らかになった主題の結果である
一方で、哲学がピュシスと関連することで、それは人間によって作られたものとは区別した
そこからピュシスの対立概念を得る
1つは、人間の行動や活動に関わる全てで、狭い意味のピュシス(自然)とは異なっている
これはギリシア語では「エトス」で、エシックス(倫理学)の語源にもなっている
ピュシスとエトスが哲学で扱われる時には、ロゴスの中で明確に話され議論される
「もの・こと」について語る「ロゴス」は、まず教えることに関係するすべてに入り込む
古代の哲学することがスコラ的な学科になると、自分自身の問題から生き生きと哲学することではなく、科学のような知識の習得になる
それはアリストテレスが言うエピステメ、すなわち一つの科学になるのである
このようにスコラ的に構成された哲学は、論理学、自然学(physics)、倫理学という三つの学科を生み出すことになった
この傾向は、実はプラトンがアカデメイアを作った時から始まっていた
哲学がこのように分離されるのはアリストテレスのリュケイオンにも引き継がれ、さらにストア派へと繋がった
我々は、この事実を単にメモするだけでは不十分である
決定的なことは、最初からこのスコラ的な構造が哲学の概念――学校で教え学ぶものとしての哲学――を形作っていることである
そのため、新しく現れた哲学的問題は必然的に、これらのどれかに割り当てられ、それぞれの方法論で扱われることになるのである
2022年2月20日日曜日
ハイデッガーの形而上学(13)
2022年2月19日土曜日
ハイデッガーの形而上学(12)
「このコスモスはすべてを通して常に同じで、神も人間もそれを創造したのではない。そうではなく、このピュシスは常に在ったし、現在も常に在り、これからも消えることのない炎であるだろう。尺度に合わせて燃え上がり消えたりしながら」
α)第2の意味
ピュシスは存在の1つの領域の意味ではなく、存在するものの性質(nature)を意味している
ここに来て、自然には最奥の本質の意味が出てくる
自然のものの性質ではなく、ありとあらゆる存在の性質を意味するのである
我々は、魂や芸術作品や事物の性質(nature)という言い方をする
ピュシスには所謂自然ではなく、本質、すなわちものの内的法則という意味がある
決定的なことは、2つの概念の一方が他方を抑制するというのではなく、両方が共存していることである
ここで古代哲学が2つの基本的な意味を明確にするに至った歴史的解析をすることはできない
ただ、ピュシスの2つの概念が発展するためには数世紀が必要であったことは言っておきたい
それは哲学する情熱を持った人の場合であった
我々のような野蛮人は、このようなことは一夜にして起きたと考えるのである
2022年2月18日金曜日
ハイデッガーの形而上学(11)
「人間がその力の内に持つ最高のものは(全体について)瞑想することであり、智慧(明晰さ)は隠されていないことを隠されていないものとして語り行うことである」
「明らかになってそこにある調和よりも高く、より力を持つのは、自らを明らかにしない隠された調和である」
これは、ピュシスが隠しているものが明らかになってそこにあるものではないことを教えている
これはまた、ロゴスがそれを明らかにする任務を持ってくることを意味している
2022年2月17日木曜日
アレクサンドル・コイレによる宇宙
2022年2月16日水曜日
ハイデッガーの形而上学(10)
2022年2月15日火曜日
ハイデッガーの形而上学(9)
2022年2月14日月曜日
ハイデッガーの形而上学(8)
2022年2月13日日曜日
ハイデッガーの形而上学(7)
哲学は一人の人間の特権などではなく、誰にでも関わるものである
であるとすれば、誰にでも関わるものは誰にでも理解されるものでなければならない
その意味は、何の努力もなしに、そのままで直ちに明らかなものである
哲学は究極の何かである
それは誰でもが持たなければならず、持つことができる何かである
最高のものは最も確かなものである
誰でもが最も高度で、最も厳密で、最も確実な知を知っている
哲学的なカリスマを否定することが難しいプラトンのアカデミアの入口には、幾何学、数学の知識のない者は入るべからずとあった
近代哲学の道筋をつけたデカルトは、数学的真理の特徴を持った哲学的真理を導き出す以外に何も求めなかったのではなかったか
ライプニッツは「数学者なしに我々は形而上学の基本に到達できない」と言ったとされる
これが哲学における絶対的真理と言われるものである
しかしこの試みは決して成功して来なかった
アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヘーゲルなどの思想家は、博士候補の論駁に我慢してきた
これらの歴史はあまりにも大きな打撃なので、最早認識されないようになっている
ところで、数学的知識を知識の基準、あるいは哲学的真理の理想とすることは何を意味しているのか
それは、最も中身のない、人間的要素を要求しない知識を、全体を扱う最も豊かな知である哲学の基準にするということである
例えば17歳の少年が重大な数学的発見をするということが、数学知が人間的な中身を要求していないことを示している
このようなことは哲学では起こらない
つまり、人間的要素を要求しない最も中身のない数学知をその逆の性質を持つ哲学の基準にすることがあり得ないことだったのである
2022年2月12日土曜日
ハイデッガーの形而上学(6)
2022年2月11日金曜日
ハイデッガーの形而上学(5)
2022年2月10日木曜日
ハイデッガーの形而上学(4)
2022年2月9日水曜日
ハイデッガーの形而上学(3)
2022年2月8日火曜日
ハイデッガーの形而上学(2)
2022年2月7日月曜日
ハイデッガーによる形而上学
2022年2月6日日曜日
イヴァン・イリイチの医療批判
Limits to Medicine. Medical Nemesis: The Expropriation of Health(Marion Boyars, 1976)
2022年2月5日土曜日
ジョン・グレゴリーという18世紀スコットランドの医師
John Gregory (1724–1773)
暫く寝かせてあった免疫に関するエッセイの読み直しを始めた
まだ冒頭のところで、エンジンがかかっていないようであった
今日もメモを読み返してみた
2008年7月13日のメモから
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18世紀スコットランドにジョン・グレゴリー(1724–1773)という医師がいた
啓蒙主義(進歩、改良)を信奉し、医学の実践について倫理面から分析を行い、当時市場原理に基づく考え方で行われていた医療の改良に努めたようだ
その指導原理となるのは2つの哲学
フランシス・ベーコン(1561-1626)流の科学的な視点とデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の道徳、特に共感を医療の現場に持ち込むことであった
ベーコン流の科学とは、観察、経験、実験に基づくもので、現代科学の基礎となっているもの
ヒュームによる共感とは、人が苦しんでいることを察すると、その観念と共に相手の苦痛と同じものを感じるようになるもの
この共感は女性的なものと捉えていたようだが、現在のケア理論の先駆けになっているようだ
ヒュームとはアバディーン哲学協会で実際に会っていたらしい
エジンバラ大学での講義に基づいていろいろな著作を発表している
● Observations on the Duties and Offices of a Physician and on the Method of Prosecuting Enquiries in Philosophy(1770)
● Lectures on the Duties and Qualifications of a Physician「医師の義務と視覚に関する講義」(1772)
これらは医療倫理について英語で書かれた最初のものとされている
2022年2月4日金曜日
治療に重要となる精神と全体の知
2022年2月3日木曜日
『絶対』に生きる
このところ当たっていた「医学のあゆみ」エッセイシリーズの纏めの校正が終わった
ファイナルバージョンとしてもよいと思われるものだが、何かが終わったという感覚が全くない
まだ異常な集中が維持されているようだ
ところでメモの解読だが、昨日と同じ2008年7月6日に「『絶対』に生きる」というのがあり、驚いた
何年か前から「絶対的真理」などということを言い出しているが、実はフランスに渡った当初からどこかにあったアイディアであることが判明
そこには、こんな言葉が並んでいた
これは、絶対的なものと共に生きること、あるいは全体的なるものを目指して生きることを意味している。この世にある相対的な価値には囚われず、自らが掲げる絶対的なものに向かって生きることである。これができれば、素晴らしいだろう。その状態になれば、顔に表れてくるのではないだろうか。その道を進むエネルギー源になるのは、20代から言っている「内なるモーター」である。このモーターの状態は20代と変わっていない。その時のわたしと共に歩むのである。
この段階では、絶対的なるもののイメージはまだできていなかったように見える
どこか分からないが、そこに向かおうとする無謀な気負いだけは表れている
そのイメージは当時よりは明確になってきているような気がしている
2022年2月2日水曜日
リヒャルト・ゼーモンの「ムネーメ」
2022年2月1日火曜日
新しいテーマが顔を出すのか
新しい月が始まった
春の気配が感じられるかと思ったらまた逆戻りという感じだが、着実に冬は終わりつつある
今日も「医学のあゆみ」エッセイシリーズに関する読み込みをしていた
さらに検討すべきところが出てきたので、もう少しかかりそうである
ところで今朝のこと
文献に目を通していたところ、最近頭に浮かんだこととの繋がりが見えてきて、かなり大きなテーマになりそうな気配を感じた
手応えはありそうだが、少し待ってくれ!という感じである
いつものように様子を見ることにしたい