2022年2月28日月曜日

2月を振り返って
























寒かった2月も終わりを迎え、春の気配を感じる季節になってきた

さて、今月は何をやっていたのだろうか


1つは、「医学のあゆみ」のエッセイシリーズの纏めを終え、原稿を出版社に送ったこと

予定では6月刊行とのことだった

これまでの経験から言えることは、自分の書いたものがどのようなものなのかをすぐには判断できないということである

ただ、この纏めは10年前から書いたものを再び取り上げているので、書いた直後とは異なり、少しだけ客観的に見ることができるようだ

その印象を一言でいえば、「一学徒の発見に満ちた知的遍歴」とでも総括できそうな内容になっている

刊行の暁には手に取っていただければ幸いである


2つは、寝かせておいた免疫に関するエッセイの見直しを始めたこと

こちらは書き終えてまだ時間が経っていないので、客観的な印象を表現することができない

主観的には、新しい視点を盛り込み、これまでにない読み物になっているのではないかと想像している

同じように考え、あるいはこの中に新たな特徴を見るお産婆さんがいることを願うばかりである


3つは、ハイデッガーの形而上学を読み始めたこと

最近の日常は発見に満ちているが、この方の分析にも目を開かされることが少なくない

これからも読み続けることになりそうである

フランスに渡る前、フランスの哲学教師からハイデッガーの思考と共通するところがあるとの指摘を受けたことがある

それを裏付けるように、わたしが発しているのではないかと思われる言葉によく出会う

ピエール・アドーさんが言うように、立ち止まって反芻・瞑想しながらの読書になっている

そうしなければ内容を掴むことはできないし、それでも読み切っているのかどうか分からない

いずれにせよ、興味深い経験となっている



今月はこれまで主要なプロジェとしてやってきた2つが収斂するように纏まりを見せてくれた

偶然の成せる業だろうが、驚きである

この2つは相互に深く絡み合っている

両方を併せて読むと、より立体的にこれまでの歩みが見えてくるようである


今月もよく摘み取ったのではないだろうか

来月もそうありたい







2022年2月27日日曜日

ハイデッガーの形而上学(20)
























トマス・アクィナスにおける形而上学の概念:伝統的な形而上学の概念の3つの特徴に関する歴史的証拠


私がこれまでに提示した伝統的な形而上学の概念の3つの特徴、すなわち、その矮小化、混乱、問題とならない性質についていくつかの証拠を提供したい

そうすることにより、これがある特定の立場からの見方ではないことが分かるからである

その証拠はトマス・アクィナスの形而上学の概念を通して提供できるかもしれない

アクィナスは折に触れて、体系的にではないが、アリストテレス形而上学についての注の中で形而上学の概念を語っている

アクィナスは「第一哲学」、「形而上学」、「神学」(神の科学=scientia divina=神的なるものの知)を同一のものとしている

scientia divina は天啓から生まれる知、人間の信仰に関係した知を意味する scientia sacra(聖の科学)とは別のものである

上の3つを同列に並べることはどれだけ驚くべきことなのだろうか

アリストテレスは形而上学という言葉は知らなかったが、アクィナスの見方はアリストテレスのものでもあったのである


アクィナスは最も高度な知(彼は常に形而上学的知と呼ぶ)は、全ての知を支配するscientia regulatrix であるという前提から進める

最も知り得るものを3つに分ける

1.何かが最も高度な意味において知り得る

中世においては、知るということは「もの・こと」をその原因で把握することである

究極の原因、第一原因に戻る時、何かは最も高度な意味において知られる

この考えによれば、第一原因は世界の創造者である神になる

この原因が知ること、すなわち第一哲学の対象になる

これはアリストテレスの思考とは相容れない思考の流れになる


 2.何かを感覚的な知との比較で理解する

他方、知性とは個別、特定のものではなく、すべてに共通するものに関するものである

これはアリストテレスが「オン」についての知で光を当てたかったことである

アクィナスはこれを transphysica、すなわち物理的なものや感覚的なものを超えたものについての決定であるとした

つまり、この知を形而上学と定義したのである

第一哲学と神学と同列に置いた形而上学を特別にこのように定義したということは、存在論(ontology、後に metaphysica generalis と呼ばれることになる)と同義に理解していたことになる


3.何かが知性そのものの知に関して最も知り得る

アクィナスは最も知り得るものは物質がないものとした

それは霊的なもの、超えたものの知で、神に関する知 scientia divina、神学になる








2022年2月26日土曜日

ハイデッガーの形而上学(19)

























b)形而上学の伝統的な概念の混乱した状態:超感覚の存在に関係する超えて在る「メタ」と存在の本質に特徴的な非感覚の「メタ」が結び付いている


形而上学の伝統的概念は内在的に混乱している

アリストテレスにおいては、超感覚の知である神学の横にもう一つの問いの方向性があった

それは元々、存在そのもの「オン」の知に関する問いに属していた

トマス・アクィナスはアリストテレスの2番目の方向性を引き継いだ

存在一般が「第一哲学」の対象になったのである

したがって、存在そのものに関してわたしが問う時、必然的に個別の存在を通り越していくことが明らかである

単一性、他と異なっていること、差異、対立などに向かう

ただ、個別のものを超えて存在していることは、特定の存在を超えて在る神とは全く異なっている

このように根本的に異なる種類の超えて在るものが一つの概念に結び付けられている

問題はそのことについて問われないことである

より一般的に言うと、

第1の神学の知の場合、存在そのものとして感覚を超えて在るという意味における非感覚的なるものの知である

第2の場合、単一性、他と異なっていること、差異、わたしが味わうことも重さを測ることもできないものをわたしが強調する時はいつも、超感覚ではなく非感覚な何か、感覚からは近づけない非感覚な何かのことである

このように見ると、アリストテレス哲学の中にあった問題が引き継がれた限りにおいて、形而上学の概念そのものは混乱しているのである



c)形而上学の伝統的概念の問題とはならない性質


形而上学の伝統的概念はこのように矮小化され混乱しているので、形而上学そのもの、あるいは適切な意味における「メタ」は問題にされない

逆に言えば、人間が完全に自由な問い掛けをすることとしての哲学は中世では不可能であったので、アリストテレス形而上学を2つの方向性に則り引き継いだことは、最初から信仰の教義だけではなく第一哲学そのものの教義が生まれるように体系化されたのである

古代哲学がキリスト教の信仰へ、そしてデカルトで見たように近代哲学に引き継がれるという奇妙な過程は、適切な問い掛けを確立したカントによって初めて断ち切られたのである

カントは初めて形而上学自体を問題にすることを試みた

ここでそのことを詳細に論じることはできないが、詳しく知りたい人はわたしの『カントと形而上学の問題』を読んでいただきたい

そのすべてを理解するためには、19世紀のドイツ観念論などを通して生まれ、標準になっているカントの解釈から完全に自由にならなければならない












2022年2月25日金曜日

ハイデッガーの形而上学(18)


























a)形而上学の伝統的概念の矮小化:より高いものであるが手元にある存在としての形而上学的なもの(神、不滅の魂)


形而上学の伝統的な概念は矮小化されている

今日、「形而上学」とか「形而上学的」という言葉が使われる時はいつも、何か深く、神秘的で、直接は近づけない、日常的なものの背後にあり、究極の領域にあるものという印象を伝えるためである

普通の経験を超えたものという時は、超感覚的なものを指している

神智学やオカルトなどはそれと関係している

形而上学の復活などと言われるのはこのようなもので、キリスト教のドグマと関連している

それは古代哲学に由来し、順序の問題ではなく、内容の解釈に関連する形而上学である

キリスト教が関心を持つこの世界を超えるものは、神と不死である

それが形而上学そのものになるのである

近代哲学の始めから、デカルトが『省察』の中で言ったように、神の存在と魂の永遠の証拠を見つけることが第一哲学の目的だったのである

アリストテレスにおいては、第一哲学を存在そのものに関する問いと存在の本質に関する問いの2つに分けた

それは全体としての存在に関する問いであり、究極、最高のものに関する問いに戻っていった

アリストテレスはこれを「テオス」に関する「ロゴス」=神学(テオロギー)とした

このテオスは創造主や人格を持つものではなく、神的なものである

このように、アリストテレスにおいては形而上学と神学は結び付いていた

日常的な意味における形而上学的なもの、超感覚的なものは神学的知とされるものになったのである

それは信仰の神学ではなく、理性の神学であった

形而上学が科学などの他の存在に関する知と同じレベルに入ってきた

「メタ」は特別な思考の方向性を指すものではなく、単に他のものの後、上にあることを意味するようになった

形而上学が独自に立つという基本的な方向性が消え、日常的な知の中に矮小化されることになった

one of them になったのである

しかし、これは「メタ」の完全な誤解である

形而上学的なものをある存在として理解する時、形而上学という概念の矮小化と浅薄さに出会うことになる









2022年2月24日木曜日

ハイデッガーの形而上学(17)















形而上学の伝統的な概念に内在する不一致


形而上学をスコラ学の教科として排除したことを考えれば、何の正当性をもって「形而上学」という名前を保持しているのか、それは同時にそこにどのような意味を与えているのかという問題に我々は関わり合っている

この言葉の歴史を通してその答えを探した

その歴史は何を我々に語ったのか

それは2つあった

最初の技術的な意味とその後の内容に関する意味である

最初の意味はさて置き、我々が哲学とは形而上学的問い掛けであるという時の2番目の意味で形而上学を考える

超感覚の知識に関する内容として形而上学は捉えられた

形而上学を単に「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)のタイトルとしてではなく、哲学そのものを表す言葉として理解している

ここで問題になるのは、「第一哲学」の真の理解から形而上学が解釈されたのか、形而上学(メタ)の内容から生まれた解釈に基づいて「第一哲学」が構想されたのかである

実際には後者で、形而上学は超感覚に関する知識とする第2の意味において捉えられた

これは我々の仮定とは異なっているかもしれない

我々が求めたのは、「第一哲学」の元々の理解から生まれた意味を手に入れてから名前を与えることである

つまり、内容から考えられた形而上学との関係で「第一哲学」を解釈するのではなく、アリストテレスの「第一哲学」で問題にされたことを解釈することにより、「形而上学」という表現を正当化することである

このような問いを出すということは、超感覚の知識としての形而上学は「第一哲学」の元々の理解から生まれたものではないという考えがベースにあることを意味している

そのための2つの根拠を示さなければならない

1つは、「第一哲学」の元々の理解がどのようにアリストテレスの中で得られるのか

2つは、形而上学の伝統的な概念がこの点で欠けていることである


最初の点を示すためには、我々自身が哲学それ自体のより根源的な問題点を展開していることが必要である

その後に初めて、「第一哲学」の、すなわち古代哲学の隠され、未だ発掘されていない基盤を照らし出す松明を持ち、そこで基本的に何が起こっているのかを決めることができるかもしれない

ここで、形而上学という伝統的な概念に内在する不一致について指摘しておきたい

形而上学の伝統的概念について、3つのことを主張する

1)形而上学は矮小化されている

2)形而上学は内在的に混乱している

3)形而上学は明示されるべきことの現実的な問題には関わらない


▣ これら3つの点については次回以降に論じる





2022年2月23日水曜日

ハイデッガーの形而上学(16)

























b)内容に関する「メタ」の意味:「を超えて」(trans
超感覚の科学.スコラ学としての形而上学


このように、長い間『タ・メタ・タ・ピュシカ』は技術的なタイトルであった

それが、いつ、誰によって、どのように行われたのかは分からないが、ラテン語の「メタフィジカ」という一つの言葉に圧縮されることになった

すでに見たように、ギリシア語の「メタ」には「後ろ」という意味があるが、「何かから離れて別のものに向かう」という意味もある

「メタフィジカ」という言葉になることによって、「メタ」は意味を変えた

自然学の後に来るという意味ではなく、「ピュシカ」から離れ、別のもの――存在一般、あるいは適切に存在するもの――に向かうものは何でも扱う学となったのである

1つの領域としての自然から哲学そのものが離れたことは、個別の存在を超えて他の存在に向かうことである


形而上学は感覚を超えた知識、超感覚の科学と知識となった

ギリシア語の「メタ」はラテン語では後ろを意味する post だが、trans (超えて)という第2の意味もあることからも理解できるだろう

技術的な意味から内容に関する意味に変わったのである

これをスコラ哲学に分類したことが、哲学そのものを形而上学とするという解釈の原因になった

このような変化は決してどうでもいいことでも害がなかったとも言えないことに十分な注意が払われていない

西洋における哲学そのものの運命がこのことにより決定されたのである

哲学そのものが前もって第2の意味におけるメタフィジックスとされることは、特定の方向性や特定のアプローチに強制される

そこから同様の言葉の使われ方が生まれた

例えば、「メタ論理」、ユークリッド幾何学を超えた「メタ幾何学」、哲学体系に基づく政治を実践する「メタ政治家」、アスピリンの効果を超える「メタ・アスピリン」などという話まで出ている・・・・・<現代では、「メタ」と名乗る企業まで現れている>

技術的意味から内容による意味への変化、そしてそれがどのようにして他のスコラ学と同列に分類されたのかを記憶しておくことは重要である

それについて多くのことを言うことができるが、形而上学の生きた問題からそれを理解するのでなければ不毛である








2022年2月22日火曜日

ハイデッガーの形而上学(15)































メタフィジックスにある「メタ」の技術的な意味から、中身に関して考えられている意味への切り替え

a)後(post)という「メタ」の技術的な意味 


紀元前300年から紀元前1世紀という古代哲学の凋落の世紀の間、アリストテレスの著作は殆ど忘れ去られていた

まず彼自身、殆ど出版していなかった

残されたものは、原稿、講義の草稿、講義の筆記録などであった

これらの材料をどうするのか、アリストテレス哲学を学校でも使えるようにしたいと考える人たちがいた

そこで彼らが直面したのは、アリストテレスが書き残した全体を搔き集めて整理することであった

そこでごく自然だったのは、当時あった3つの見方、すなわち論理学、自然学、倫理学に則って分類することであった

しかし、彼の著作の中にはこれらに当て嵌まらない存在一般、存在が在るところのものに関する「哲学することそのこと」が含まれていた

整理する人はこれらをどこに入れるのか分からなからず戸惑いが生まれたが、それを除くことは最も避けたいことであった

そこで生まれる問題は、学校は3つの学科をどうするのかを決める立場にないので、どうするのかということであった

この状況について明確にしなければならないことがある

それは、哲学において本質的なことは、収めることができないということである

学校の哲学は、哲学することに直面して困惑したのである


この困惑から抜け出す方法が唯一つ残されている

「哲学することそのこと」が学校では当たり前になっていることと関連がないのかどうかを検討することである

そうすると、両者は確かに関連している

アリストテレスが「第一哲学」で扱った問題と学校の哲学が「自然学」の中で論じたことの間に関連性がある

勿論「第一哲学」での議論は、より広くより根源的ではあるのだが、、

従って、「第一哲学」を物理学の中に分類することはできないが、唯一可能なのは自然学と「並行して」、「背後に」、「後に」置くことである

「背後に」、「後に」のギリシア語が「メタ」で、哲学することそのことが自然学の後ろに置かれて「メタ・タ・ピュシカ」となり、そのタイトルが『タ・メタ・タ・ピュシカ』となったのである

ここで重要なことは、この名称はその内容や問題点によるものではないということである

我々がメタフィジックス(形而上学)と呼ぶものは困惑のタイトルであり、何をしてよいのか困ったところから生まれた純粋に技術的な表現だったのである







2022年2月21日月曜日

ハイデッガーの形而上学(14)














今朝はなぜか早く目が覚めた

テレビを付けてみると、ロワール川の古城の映像が流れているではないか

以前に観たような気もしたが、わたしが住んでいたトゥール周辺の景色を空から眺めることにした

丁度、ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズが始まったところだった

それから、ブロアシュノンソーヴィランドリーアンジェソミュールナントのブルターニュ大公城など

いずれも訪れた時の記憶が蘇ってきた

これを懐かしさと言うのだろうか

その時の経験は確かに記憶に蓄えられている

勿論、そこに身を置いた時の気持ちとは異なるのではあるが、


続いて、ドイツのフォーレ4重奏団の演奏が始まった

如何にもドイツ人という話し振りと言ってよいのだろうか

落ち着きと冷静さと明晰さがあり、ヨーロッパの一つの極を見る思いであった

それは演奏にも表れているように感じた

満ちた朝の時間となった


さて、今日もハイデッガーの声に耳を傾けることにした


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論理学、自然学、倫理学のスコラ的学科の形成と哲学するそのことの衰退


アリストテレスが哲学そのものに関して成し遂げたことは、それぞれの講義や論文集の中で我々に伝えられてきた

その中に、我々は哲学することについての新しいアプローチや試みを発見する

しかし、プラトンの対話篇にプラトン哲学のシステムがないように、後に考え出されたようなアリストテレスのシステムもない


アリストテレスは紀元前322-321に亡くなった

古代哲学はアリストテレスで頂点に達し、それ以降は下り坂を辿った

プラトンやアリストテレスについては、学派の形成が避けられなくなった

そこで何が起こったかというと、生き生きとした問い掛けがなくなったのである

それまで哲学的に把握されたことが、すでに明らかにされていること、有益な何か、応用可能な何か、誰でも学ぶことができるものとして扱われるようになってからは尚更である

元々のプラトン、アリストテレスの哲学に属していた全てが根こそぎにされ、最早根差した何かとしては理解されなくなる

全ての哲学が辿る運命ではあるが、それが学校の哲学になるのである

問題となるのは、最早その核心においても活力においても理解されることのない豊かな材料を整理する時の視点である


このスコラ的な整理をする際の視点は、すでに明らかになった主題の結果である

一方で、哲学がピュシスと関連することで、それは人間によって作られたものとは区別した

そこからピュシスの対立概念を得る

1つは、人間の行動や活動に関わる全てで、狭い意味のピュシス(自然)とは異なっている

これはギリシア語では「エトス」で、エシックス(倫理学)の語源にもなっている

ピュシスとエトスが哲学で扱われる時には、ロゴスの中で明確に話され議論される

「もの・こと」について語る「ロゴス」は、まず教えることに関係するすべてに入り込む


古代の哲学することがスコラ的な学科になると、自分自身の問題から生き生きと哲学することではなく、科学のような知識の習得になる

それはアリストテレスが言うエピステメ、すなわち一つの科学になるのである

このようにスコラ的に構成された哲学は、論理学、自然学(physics)、倫理学という三つの学科を生み出すことになった

この傾向は、実はプラトンがアカデメイアを作った時から始まっていた

哲学がこのように分離されるのはアリストテレスのリュケイオンにも引き継がれ、さらにストア派へと繋がった


我々は、この事実を単にメモするだけでは不十分である

決定的なことは、最初からこのスコラ的な構造が哲学の概念――学校で教え学ぶものとしての哲学――を形作っていることである

そのため、新しく現れた哲学的問題は必然的に、これらのどれかに割り当てられ、それぞれの方法論で扱われることになるのである






2022年2月20日日曜日

ハイデッガーの形而上学(13)




























アリストテレスにおけるピュシスの2つの意味

「全体としての存在」に関する問いと「存在の本質」に関する問い



哲学する中から個別の哲学=後に科学と言うようになるものが育つ

科学とは哲学するやり方であるが、その逆ではない

哲学は科学ではないのである

ギリシアの科学に当たる言葉はエピステメで、それは「もの・こと」の前に立つこと、そのことの中で自分に位置が分かること、それをコントロールしていること、その内容を見通すことである

アリストテレスにおいてのみ、この言葉が広い意味での「科学」の決定的な意味を持っている

すなわち、諸科学における理論的探索という意味である

古代ギリシアにおける「ピュシカ」は現代のフィジックス(物理学)の狭い意味はなく、生物学における諸科学も含んでいた

それは異なる領域の事実を単に集めるのではなく、その領域全体の内的な法則性について省察することであった

生命とは何か、魂とは、出現するものと消滅するものとは、運動、時間とは何かについて問うことであった

そこにはまだ科学としての構造が出来上がっていなかった

全体としての存在に関する問い、究極の問いは神に関するものであった


ピュシスの第2の意味である本質に関するものはどうであろうか

古代ギリシアでは、存在は「オン」と呼ばれ、存在を存在たらしめるのが存在の本質である

アリストテレスは、全体としての存在について問うことと存在の本質を問うことを「第一哲学」とした

それはピュシスについて問うことであった

ただ、アリストテレスはこの2つの方向性がどのように融合されるのかについては何も語っていないし、今日まで誰も問い掛けていない


纏めると、ピュシスには、存在しているもので物理学が解析できるものと、存在の本質という2つの意味があり、この2つを融合して第一哲学(prima philosophia)としたのがアリストテレスだった

存在の根本的な特徴は運動であり、それは最初に運動を起こしたものが問題になる

それは、特定の宗教には関係なく、神的な存在になる

これがアリストテレスの哲学が立っているところである



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今日のお話は非常に示唆的であった

第一哲学がピュシスの2つの意味についての問いを1つにしたものだという認識はなかった

1つは科学で分析できるもので、もう1つは科学で分析できない本質に関するもの

これまで、この中の後者が第一哲学だと思っていたのである

この視点から見ると、わたしはアリストテレスの言う本来の第一哲学をやりたいと思ったということになる

つまり、科学者時代には前者をやり、フランスに渡ってからは後者について問い掛けていたからである

前者だけでは何か重要なものが欠けていると思ったのであった








2022年2月19日土曜日

ハイデッガーの形而上学(12)



























ロゴスの2つの意味


真理の最初の意味――広がっている存在=ピュシスが明らかにされること――を忘れないようにしよう

ここでピュシスの意味をさらに明快に把握することにしよう

この言葉の基本的な意味の歴史を探索し、『メタ・タ・ピュシカ』というタイトルにある「ピュシカ」が意味するところを理解することにしたい

α)第1の意味

ピュシスの基本的な意味は、最初から表れているわけではないが、それ自体で相反する

広がっているものとしてのピュシスは、それ自身が広がっているものだけではなく、広がっているものが何であれ広がっていることを意味している

蒼穹、星、大洋、地球は、常に人間を脅かすと同時に守っている

この人間を脅すと同時に維持する中で、人間の助けを借りずに自発的に広がっているものである

ここではピュシス(自然)が狭い意味で理解されているが、現代の自然科学における自然の概念よりもさらに広いものである

ピュシスは、自発的に常に形作り消えていくもので、人間が造るものとは異なっている

ヘラクレイトスは我々にこう語っている
「このコスモスはすべてを通して常に同じで、神も人間もそれを創造したのではない。そうではなく、このピュシスは常に在ったし、現在も常に在り、これからも消えることのない炎であるだろう。尺度に合わせて燃え上がり消えたりしながら」


α)第2の意味

ピュシスは存在の1つの領域の意味ではなく、存在するものの性質(nature)を意味している

ここに来て、自然には最奥の本質の意味が出てくる

自然のものの性質ではなく、ありとあらゆる存在の性質を意味するのである

我々は、魂や芸術作品や事物の性質(nature)という言い方をする

ピュシスには所謂自然ではなく、本質、すなわちものの内的法則という意味がある

決定的なことは、2つの概念の一方が他方を抑制するというのではなく、両方が共存していることである

ここで古代哲学が2つの基本的な意味を明確にするに至った歴史的解析をすることはできない

ただ、ピュシスの2つの概念が発展するためには数世紀が必要であったことは言っておきたい

それは哲学する情熱を持った人の場合であった

我々のような野蛮人は、このようなことは一夜にして起きたと考えるのである



 



2022年2月18日金曜日

ハイデッガーの形而上学(11)





























隠されていないもの(アレテイア)について語ることとしてのロゴス
隠蔽から引き離されなければならない何かとしての真理(アレテイア)

ヘラクレイトスはこう言っている
「人間がその力の内に持つ最高のものは(全体について)瞑想することであり、智慧(明晰さ)は隠されていないことを隠されていないものとして語り行うことである」
隠されているものと隠されていないもの(アレテイア)と隠されていないものを語るロゴスの関係

哲学とは、存在の広がり、ピュシスをロゴスにおいて語るために、ピュシスについて瞑想することである

ピュシスとロゴスの関係を心に留めなければならない

なぜアリストテレスが最も古いギリシアの哲学者を physiologoi と呼んだのかを理解するために

それは現代の生物学の一分野である生理学者 physiologist でもなければ、自然哲学者でもない

むしろ、全体としての「もの・こと」について問う、ピュシスについてはっきりものを言う人のことである

そこで言われることは真でなければならないが、真理とは何を言うのか

古代ギリシア人はピュシスの真理をどのように理解していたのか

そのためには、アレテイアの意味を理解しなければならない

その頭には否定を意味する「ア」が付いていて、「隠されていない」という意味である

何かが欠けているのである

真理において、隠されることから引き離されている

ギリシア人は真理を「盗まれた何か」と見ていたことになる

それは、ピュシスが自らを隠そうとすることに対抗して隠蔽から引き離さなければならない何かである

机に向かって主張を証明するようなこととは何の関係もないのである


ピュシスはロゴスとアレテイア、ソフィアのために明らかにされるという意味における真理に割り当てられている

真理はただそこにあるのではなく、盗まれた何かである

明らかにするためには、全体としての人間のアンガジュマンが求められる

ある意味で、真理は人間のダーザインの運命に根ざしている

ヘラクレイトスは言った
「明らかになってそこにある調和よりも高く、より力を持つのは、自らを明らかにしない隠された調和である」

これは、ピュシスが隠しているものが明らかになってそこにあるものではないことを教えている 

これはまた、ロゴスがそれを明らかにする任務を持ってくることを意味している


古代における真理の意味を明らかにすることは、単に語源を探ったり、より適切や訳を見つけるためではない

そうではなく、古代人のピュシスと真理に対する立場を明確にすることである

真理に充てられた言葉は、そのネガティブな側面のために重要な言葉になっている

それは、古代人の真理が中立的なものではなく、人間の有限性の運命であることを示している

この真理の意味は哲学と同じくらい古く、ピュシスとともにあるのである








2022年2月17日木曜日

アレクサンドル・コイレによる宇宙































アレクサンドル・コイレの『閉じた世界から無限の宇宙へ』が届いた

フランス語の本が手元に見つからなかったので、英語にしてみた

日本語訳もいくつか出ている

早速冒頭を読んでみたが、これまでのコンシュ、ハイデッガーと深く繋がることが論じられるようだ



17世紀に科学的、哲学的、精神的な革命が起こったが、いろいろな表現で性格付けがされている

例えば、超越的な目的から内在的なものへ、すなわち別の世界、別の生からこの世界、この生への執着へ

古代から中世にかけての客観主義から近代人の主観主義へ

あるいは、テオリア(観察)からプラクシス(実践)へ、瞑想的生活から活動的な生活へ

自然について純粋に観想することから自然を支配することへ


これらは間違ってはいないが、より根源的な変化の随伴現象ではないかとコイレは考える

それは人間が世界における場所を失ったこと、より正確に言えば、人間が住み、瞑想していた世界そのものを失ったこと

そのことにより、彼らの思考の枠組み自体を変えなければならなくなったことだという

それまでは有限で閉じた世界にいて、そこでのヒエラルキーの中で考えていたが、それが不確実で無限の宇宙に取って代わられた

それは同時に、完全性、調和、意味、目的というような価値に基づく概念による思考を捨て去り、価値と事実を分け、存在から価値を奪うものに変化した

この変化について論じるようである

これは1953年にジョンズ・ホプキンズ大学で行った野口英世レクチャーの内容を基にしたものである







2022年2月16日水曜日

ハイデッガーの形而上学(10)
























今日からイントロの第3章に入りたい

タイトルは「形而上学としての世界、有限性、個別化に関する包括的な問い掛けの特徴を正当化する.『形而上学』という言葉の起源と歴史」となっている

それでは早速始めたい


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哲学や形而上学の概念は、常に全体が問われる包括的なものである

その問いの中には、概念を理解する人も含まれている

哲学と形而上学を同等に扱ってきたが、哲学の中には形而上学の他に、論理学、倫理学、美学、自然哲学、歴史哲学が含まれる

形而上学は包括的な問い掛けである

それは、世界、有限性、個別化とは何かという包括的なものである

なぜ改めて「形而上学」と言わなければならないのか

それを知るには、その起源と歴史に還らなければならない


「形而上学」という言葉は、何か重要なことから生まれたものではない

古代ギリシアの『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά)に戻る

これは、自然に関する書の後にある書という意味である

その中のピュシカという言葉にはピュシス(ラテン語の natura、自然)があり、誕生とか成長の意味がある

ピュシスという言葉は、現代科学の対象になる自然という具合に狭く捉えるべきではないが、科学以前の意味でもゲーテが言う意味でもない

人間が誕生してから死に至るまでに経験する出来事のことで、人間の運命と歴史が含まれている

もう一度言うが、ピュシスは存在するもの、全体としての存在を指すけれでも現代的意味ではない

神的存在をも含む元々の意味が意図されている








2022年2月15日火曜日

ハイデッガーの形而上学(9)























これまでの解析から、哲学することに潜むいくつもの曖昧さを見てきた

哲学することに希望がないという印象を少しでも薄めようとして、最後は好転するだの、哲学は人類史の中で多くのことを成し遂げてきただの指摘するのは誤解になるだろう

それは哲学から遠ざかることに過ぎない

我々は寧ろその中で持ちこたえなければならない

なぜなら、その中に哲学的理解についての本質的な何かが顔を出すからである

すなわち、全体としての人間が攻撃を受けているということである

攻撃しているのは人間ではなく、日常や知識の至福という疑わしい主題である

寧ろ、哲学することの中で、人間のDa-seinが人間に攻撃を仕掛けるのである

その本質の根底にいる人間が、彼自身であるところのものによって攻撃される誰かである

この状況は、問い掛けや存在の乗り越えがたい曖昧さに対する戦いなのである


哲学の中に、使い古された絶望的な活動や何か陰鬱で悲観的でネガティブな方向に向かうもの見るのはひねくれた見方で、間違っているだろう

この評価が哲学することから引き出されたものではないからで、昔からあるものだ

それは、正常なものが本質的であり、平均的なものが普遍的に有効であり真理であるという社会的な空気から生まれる


我々は哲学することそのものを把握しようとして、二つのやり方を採った

一つは、ノヴァーリスの「哲学とはホームシックで、どこにいてもくつろぎたいという衝動である」という言葉から考えた

もう一つは、哲学することに特有の曖昧さについて解析した

そこから、哲学とは自分自身で立つ何か自律的なものであると結論できるだろう

それは科学ではないが、哲学がある時にだけ科学は存在する

科学の基礎を築くことだけが哲学の主要な仕事ではない

寧ろ、哲学は科学がない時にも人間の生活のすべて(Dasein)に浸透する

哲学することは、Da-sein の根源的な在り方なのである


哲学するとは、自然や文化について後から省察することでも、可能性や法則を考えることでもない

これらは哲学から職業やビジネスを作る見方である

これに対して哲学は、全ての職業の前に存在する何かであり、Dasein の根源的な出来事なのである


古代の哲学者はこのことを知っていた

ヘラクレイトスは「哲学とは他のすべてから切り離された何かである」と言った

「切り離されたもの」をラテン語で言えば absolutum で、それ自身の場所にいる何か、より正確に言えば、それ自身のための独自の場所を最初に作る何かである

プラトンは『国家』の中で、哲学する人間としない人間の違いは、目覚めているか寝ているかであると言っている

哲学しない人間は科学者として確かに存在するが、彼らは眠っているのである

哲学する人間は、他のすべてから離れて自分自身で立っている

ヘーゲルは、哲学とは逆転した世界であると言った

その意味は、普通の人間にとって正常であるものと比較すると、哲学は上下が逆で、Dasein に特有の方向性を持っているということである


哲学は原初的な何かであるが、それ故に隔離された何かではない

問題は、もっと素朴に、もっと生き生きと、そしてもっと持続的にすべてのことを見るために、哲学することの中に元々ある側面を取り戻すことである



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なかなか印象的な言葉が続いていた

これで第2章「哲学(形而上学)の本質の曖昧さ」が終わったことになる







2022年2月14日月曜日

ハイデッガーの形而上学(8)
































哲学知が数学的なものではなく、絶対的な確実さも持たないと提案する時、別のより鋭い反論に見舞われないだろうか

哲学が科学でも絶対的に確実な知でないと断固として言う時、絶対的なものはないと絶対的な口調で言うという自己矛盾に陥るのではないか

この議論は歴史の中で何度も現れたもので、確実なものはないという確実性はあると言うところに落ち着く

使い古されていて有効でもない

ここでは二つのことを考えたい

1)この議論はいつでも持ち出されるので、本質的には何も言っていない

  中身が空っぽで、人間を拘束もしないので、哲学とは関係のない議論である

2)哲学が科学ではなく絶対的な確実性も持たないという我々の提示を粉砕したいこの議論は、適当ではない

  我々はそう主張しているのではなく、この問題を曖昧なままにしてしておきたいのである

  哲学が科学であることが明らかになるかもしれないからそうするのではなく、この議論において我々が哲学しているかどうか分からないからである


我々は哲学することに関して確信が持てないのである

この事実は偶然そうなっているのではなく、哲学が人間の活動であるとすれば、哲学そのものに属しているのである

哲学的真理は本質的に Dasein の真理である

哲学することの真理は部分的に Dasein の運命に根ざしている

Dasein の存在に属するすべては、哲学の真理に属している

もしそうであれば、絶対的な確実性をもって哲学の真理を知ることはできない


哲学は慰めや確信の対極のあるものである

それは混乱であり、そこに入ることによってのみ Dasein を錯覚なしに理解できる

常に最高の不確実性の隣に居合わせるのである

このことを理解しない人は、哲学することの意味を暗示されることもなかった

このことを理解していなければ、いくら哲学論文を書いても哲学している対立は起こらない

哲学に忙しく哲学していない人の間では、哲学している対話には至らないのである


デカルトは哲学を絶対知にしようとした

彼は哲学することを疑うことから始めた

しかし、Dasein(わたし)が問われることはなかった 

この傾向は現代哲学にまで及んでいる

それは科学的には重要であっても哲学的に重要な姿勢ではない

デカルト的やり方では、証明されることをあらかじめ知っているものについて扱われる

そのためには人間的拘束がない危険も及ばないやり方が採られる

我々がこのような姿勢を採る限り、哲学の外に置かれることになる








2022年2月13日日曜日

ハイデッガーの形而上学(7)



















哲学は一人の人間の特権などではなく、誰にでも関わるものである

であるとすれば、誰にでも関わるものは誰にでも理解されるものでなければならない

その意味は、何の努力もなしに、そのままで直ちに明らかなものである


哲学は究極の何かである

それは誰でもが持たなければならず、持つことができる何かである

最高のものは最も確かなものである

誰でもが最も高度で、最も厳密で、最も確実な知を知っている

哲学的なカリスマを否定することが難しいプラトンのアカデミアの入口には、幾何学、数学の知識のない者は入るべからずとあった

近代哲学の道筋をつけたデカルトは、数学的真理の特徴を持った哲学的真理を導き出す以外に何も求めなかったのではなかったか

ライプニッツは「数学者なしに我々は形而上学の基本に到達できない」と言ったとされる

これが哲学における絶対的真理と言われるものである

しかしこの試みは決して成功して来なかった

アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヘーゲルなどの思想家は、博士候補の論駁に我慢してきた

これらの歴史はあまりにも大きな打撃なので、最早認識されないようになっている


ところで、数学的知識を知識の基準、あるいは哲学的真理の理想とすることは何を意味しているのか

それは、最も中身のない、人間的要素を要求しない知識を、全体を扱う最も豊かな知である哲学の基準にするということである

例えば17歳の少年が重大な数学的発見をするということが、数学知が人間的な中身を要求していないことを示している

このようなことは哲学では起こらない

つまり、人間的要素を要求しない最も中身のない数学知をその逆の性質を持つ哲学の基準にすることがあり得ないことだったのである






2022年2月12日土曜日

ハイデッガーの形而上学(6)




























これまでに指摘したように、哲学は科学に基づき、世界観を宣言するものに似ているようだが、それとは別物である

科学でも世界観の宣言でもないという曖昧な両面の中に哲学がある

市場では人を欺くような(哲学のように見えるがそうではない)形で哲学が出回っている

哲学とは、そこで骨を折った者だけによって認識されるものである


哲学が教えられ、試験され、博士号を取るための対象になるのは、哲学の曖昧さをさらに増すことになる

他の教科と同じように扱われる時、そこでは何も起こらない

講義は欺瞞にさえなり得る

哲学教師でさえ、山のような用語を用いて科学的な構築をして聴講生をぎょっとさせることがある

もし彼が哲学をしているのであれば、なぜ孤独を捨て市場を走り回るのか

それこそ、この曖昧さの危険な始まりなのである


我々は大衆を説得するのか

我々が持っていない権威を基に

我々が哲学しているのかいないのかは、明らかになるだろう

あらゆる哲学の講義は、それが哲学しているかいないかに関わらず、科学には分からない曖昧な始まりなのである

証明できるもの、証明しなければならないものは、根本的に殆ど価値がない

しかし、哲学することが何か本質的なものに関わるとすれば、本質的なものは証明できないしすべきではないのか

あるいは、証明できるかできないかで哲学することを議論するのは許されないのか

哲学における真理は科学における証拠とは全く違うのか

ここで我々は哲学の深いところにある曖昧さに触れることになる









2022年2月11日金曜日

ハイデッガーの形而上学(5)
































本日もハイデッガーを読むことにした

これまで読んできたのは、「予備的評価」と題されたイントロのようなところの第1章だった

今日からその第2章「哲学(形而上学)の本質の曖昧さ」に当たることにしたい

因みに、第1章のタイトルは「哲学(形而上学)の本質の決定に向けての回り道、そして形而上学を直視することの不可避性」であった


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「形而上学の根本諸概念」という講義のタイトルの理解の仕方が変化してきた

もし、人間存在の冒険に対する熱意や、謎に包まれたダーザインやものの性質に対する興味や、思考の学派や学術的意見からの自立を呼び覚まさなければ、いくら知識を蓄えても大学生活は内的に欠落したものになる

それ以降の歩みも曲がりくねったものになり、最後は独りよがりの満足に終わるだろう

ここで求められるのは、単に知識を集めて記憶するだけではない異なった種類の注意深さである

哲学は科学と全く違うものだが科学の外形が残っていると、哲学は隠れてしまう

さらに、哲学とは全く違うものとして顔を出す

しかし、それは形而上学の本質の良い面である

それが曖昧さである

この曖昧さの兆候を示すまでは、我々の哲学に対する予備的評価は完了しない

形而上学の本質的曖昧さについて、次の3点から論じる予定である

1)一般的に哲学することに存在する曖昧さ

2)聴講者と講師の振る舞いにおいて、我々がいま・ここで哲学することの曖昧さ

3)哲学的真理の曖昧さ

これらを議論するのは、我々に求められている基本的な方向性を明らかにするためである







2022年2月10日木曜日

ハイデッガーの形而上学(4)
























今日は「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めるプロジェのための打ち合わせがZoomであった

全体は見えてきたのだが、まだ細かい点の調整が残っていた

そして何よりもどんなタイトルにするのかという問題があった

前もっていくつかの案が提示されていた

一般受けがよさそうなものは、こちらが恥ずかしくなる

一番自然なのはこれまでタイトルとして使ってきたようなものだが、それはある前提を理解している人向けにしかならない

ということで、少し開かれてはいるが、こちらも恥ずかしくならないものに落ち着きそうである

これは当初考えていたものとは違ったが、それだけに自分にとっては新鮮な感じがする

いつも感じるのは、第三者の目が加わることによって全く新しい姿が現れるということである


ということで、今日も休まずにハイデッガーを続けたい


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我々は準備の評価段階にある

これは仕事を我々に近づけ、全体の方向性を明確にすることを意味している

形而上学が何かを問う時に、それを科学や世界観の宣言であるとしたり、芸術や宗教と比べたり、歴史的な方向性から決めようとすると回り道になる

かと言って、形而上学を直接把握することはできないし、問われているものと共にいることは特に難しい

そのため、便宜的にノヴァーリスの言葉に戻ったのである

そして、ホームシックになるということは、あらゆるところを住まいとして、全体としての人々(これは世界としてよい)の中にいることであった

そこで問題になるのは人間の有限性である

そして、有限になるときに起こるのは、人間の究極の孤独である

ノヴァーリスがホームシックと名づけたものは、結局は哲学することとの基本的な調和である

形而上学は、限られた分野について思考の技術を用いて得られる知の領域ではない

形而上学は人間の中の根源的な出来事である

形而上学の概念は、これは家、これは灯篭というような類のものではない

科学的な種類のものではないのである

形而上学とは全体としての存在に踏み込み、そうすることにより、我々が問いの中に組み込まれる問い掛けである

全体の概念は、存在を哲学することを理解しなければ得られない

形而上学的思考は包括的な思考である

全体を対象として、存在を徹底的に把握することである


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今回は第1章のまとめのようなところだった






2022年2月9日水曜日

ハイデッガーの形而上学(3)































今日もハイデッガーの続きを読むことにしたい



形而上学が何かを理解するためには、比較では駄目であることをこれまで見てきた

形而上学そのものから目を逸らさず、正面から見なければならないのである

しかし、哲学そのものがどういうものであるのかを我々は知らない

それは我々が哲学をする時に存在する

哲学とは、哲学することなのである

あまり参考にならない答えだが、繰り返すうちに方向性が見えてくる

哲学することとしての形而上学、人間の活動としての形而上学

我々は我々が何者であるのかを知っているのか

人間とは何かを

哲学とはどうでもよいこと、単に知識を集めることなどではなく、全体に関することである


ノヴァーリス(1772-1801)は、哲学とはホームシックである、どこにいても家にいるように促すものであると言った

詩人の不思議な定義である

現代の都会では、ホームシックなどという言葉は根絶されて久しいのではないか

それが哲学の定義だという

どこにいても家にいるとは、単にどんな場所にいても、ということではなく、全体の中に常にいることを意味している

その全体とは世界である

我々は常に何かを待っている

全体としての何かに我々は求められているのである

これが我々がホームシックに駆り立てられる場所である

我々はすでに旅立ち、そこに向かっている

と同時に、我々は逆方向に引き裂かれてもいる

この状態が不安をもたらす

それは有限性であり、単に我々にくっ付いている性質などではなく、我々の存在の根源的な在り方である

我々が我々であるところのものになろうとするならば、この点を胡麻化してはいけない

内面から有限な存在になるということは、人間が個別化されることであり、それは孤独のことである

そこで人間は本質的なものの近くに身を置くことになる

世界、有限性、個別化という問題にホームシックとしての形而上学が導くのである

決定的に重要なことは、この問いを知ることではなく、実際にこの問いを最後まで問い続ける力を持つことである

そのためには、概念による理解力を持つことが求められ、それが道を開くのである

形而上学の概念は、単純に学ぶことができる科学的なものからは永遠に閉ざされたままである

そして何よりも、これらの概念は我々自身が実際に虜にならなければ理解できない

概念的理解や哲学することは、何かの脇でやるどうでもいいことではなく、人間(Dasein)の基礎にあるものである

形而上学をそれ自体として見るということは、結局は形而上学が人間の本質の闇の中に引きさがることであった

形而上学とは何かと問うことは、人間とは何かを問うことだったのである

勿論、その答えを持っているわけではない

その神秘的な存在の本質の中で、哲学は起こるのである







2022年2月8日火曜日

ハイデッガーの形而上学(2)





今日もハイデッガーの続きを読んでみることにした

彼は、哲学の本質は他のものと比べることができるかという問いを出す

比べることができるとすれば、例えば芸術や宗教ではないというネガティブな比較になるだろう

それでは科学との比較はどうか

それは哲学の価値を不当に卑しめるものになる

哲学の本質はこれらの比較による回り道からは掴むことができないだろう

ただ、哲学の道行で芸術や宗教と出遭い、同じレベルで処理されることはあるかもしれないが、、

このような比較により哲学(形而上学)を把握することはできないのである

それではどんな道があるのか


もし哲学(形而上学)が存在しているとすれば、それは昨日出来上がったわけではなく、歴史を持っている

そこで問題が3つある

一つは、形而上学という言葉の由来とそもそもの意味である

二つは、その単純な意味から形而上学と定義されるものが何であるのかに至ることができるということ

そして最後は、その定義により、我々はものそれ自体に突き進むことができることである

我々は形而上学についての意見を知ることはできるが、形而上学そのものは知らない

歴史を知ることにより、我々が求めるものを理解できるという幻想がある












2022年2月7日月曜日

ハイデッガーによる形而上学































『形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独』と訳されているハイデッガーの著作がある

全集になっているものは1.6万もするので、四分の一以下の英語版を注文、本日届いた

ざっとしか読んでいないが、よく入ってくる

相性の良い哲学者に入るのだろうか

そういうご宣託をいただいたこともあるが、そこに真なるものがあったのだろうか


これは1929年から1930年にかけての講義録らしい

冒頭こんな言葉が目についた

形而上学が教えられるような科学とされる幻想

形而上学が固定化された確かな哲学の領域であるという偏見

形而上学においてはすべてが不確かで、多数の立場や見方がある

形而上学はまだ成熟した科学の域に達していない

哲学を世界観の宣言などと見るのは、科学として見るのと同じように間違っている

哲学(形而上学)は世界観の宣言でも科学でもない

つまり、ネガティブにしか定義できないのが哲学である

ポジティブに定義できるということに関して、比較できるものは他にない

哲学は、それ自身で立っているもの、究極の何かである





2022年2月6日日曜日

イヴァン・イリイチの医療批判





























 Ivan Illich (1926-2002)


イヴァン・イリイチという工業化社会を批判したカトリックの司祭から哲学者になった人物がいる

批判の対象には医学も入っている

例えば、以下の本もその一つである


医学が寿命延長に果たした役割などは幻想で、環境の整備(公衆衛生)の方が重要であった

寿命延長にはコストのかからない方法が重要で、特別な治療法開発には多大の費用が掛かる

1971年だけを見ても医療過誤の訴えが15,000件もあり、入院中におかしくなった患者は7%になるという

彼は医原病(iatrogenesis)の概念を広げて、3つに分類している

1)本来の臨床的な医原病(医療そのものが原因となる病気)で、これこそが病原体だという

2)社会的な医原病で、医療化の行き過ぎのこと

これは、本来医療とは関わりのない社会生活での問題までもが病気とされ、医療の対象となること

3)文化的医原病で、人間が伝統的に持っている死や痛みや病と向き合う力を破壊するもの

これらは医療システムに組み込まれており、不可逆的である

このように、工業化社会は生に質を低下させているとしている


――2008年7月14日のメモから――


半世紀の間に状況はさらに悪化しているようにも見える









2022年2月5日土曜日

ジョン・グレゴリーという18世紀スコットランドの医師


















John Gregory (1724–1773)


暫く寝かせてあった免疫に関するエッセイの読み直しを始めた

まだ冒頭のところで、エンジンがかかっていないようであった


今日もメモを読み返してみた

2008年7月13日のメモから


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18世紀スコットランドにジョン・グレゴリー(1724–1773)という医師がいた

啓蒙主義(進歩、改良)を信奉し、医学の実践について倫理面から分析を行い、当時市場原理に基づく考え方で行われていた医療の改良に努めたようだ

その指導原理となるのは2つの哲学

フランシス・ベーコン(1561-1626)流の科学的な視点とデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の道徳、特に共感を医療の現場に持ち込むことであった

ベーコン流の科学とは、観察、経験、実験に基づくもので、現代科学の基礎となっているもの

ヒュームによる共感とは、人が苦しんでいることを察すると、その観念と共に相手の苦痛と同じものを感じるようになるもの

この共感は女性的なものと捉えていたようだが、現在のケア理論の先駆けになっているようだ

ヒュームとはアバディーン哲学協会で実際に会っていたらしい

エジンバラ大学での講義に基づいていろいろな著作を発表している

● Observations on the Duties and Offices of a Physician and on the Method of Prosecuting Enquiries in Philosophy(1770)

● Lectures on the Duties and Qualifications of a Physician医師の義務と視覚に関する講義」(1772)

これらは医療倫理について英語で書かれた最初のものとされている





2022年2月4日金曜日

治療に重要となる精神と全体の知























今日もメモを読んでみたが、とにかく、当時のメモは量が多い

フランスに渡ってまだ1年なので、高揚した気分の中にあったのではないだろうか

それと、この時期は主に医学に関連する問題を考えていたようである


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プラトンは、体を治すためには魂について、あるいは全体について何らかのことを知っていなければならないとした

この知識がないと治療はできないということである

これらの知は、存在そのものの統一性に関係している

もし、全体が我々の社会を含むことになれば、医学という学問は真に普遍的な科学になる


ヘラクレイトスは、隠れた調和は明らかにされた調和よりも常に強力であると言った

体液の調和の取れたバランス

我々は隠れた調和を取り戻さなければならない


(2008年7月10日のメモから)










2022年2月3日木曜日

『絶対』に生きる















このところ当たっていた「医学のあゆみ」エッセイシリーズの纏めの校正が終わった

ファイナルバージョンとしてもよいと思われるものだが、何かが終わったという感覚が全くない

まだ異常な集中が維持されているようだ


ところでメモの解読だが、昨日と同じ2008年7月6日に「『絶対』に生きる」というのがあり、驚いた

何年か前から「絶対的真理」などということを言い出しているが、実はフランスに渡った当初からどこかにあったアイディアであることが判明

そこには、こんな言葉が並んでいた

これは、絶対的なものと共に生きること、あるいは全体的なるものを目指して生きることを意味している。この世にある相対的な価値には囚われず、自らが掲げる絶対的なものに向かって生きることである。これができれば、素晴らしいだろう。その状態になれば、顔に表れてくるのではないだろうか。その道を進むエネルギー源になるのは、20代から言っている「内なるモーター」である。このモーターの状態は20代と変わっていない。その時のわたしと共に歩むのである。


この段階では、絶対的なるもののイメージはまだできていなかったように見える

どこか分からないが、そこに向かおうとする無謀な気負いだけは表れている

そのイメージは当時よりは明確になってきているような気がしている


 



2022年2月2日水曜日

リヒャルト・ゼーモンの「ムネーメ」
































昨日は春は近いようなことを書いたが、朝夕は相変わらず冷え込んでいる

このところ忙しく、メモを読むことができなかったが、久し振りに開いてみた

まだ2008年なのだが、7月6日のメモからリヒャルト・ゼーモン(Richard Semon, 1859-1918)という科学者が顔を出した

リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』(1976)の中で提唱した「ミーム」(meme)に先立ち、類似した「ムネーメ」(mneme)という概念を考えた

ドーキンスのミームは、遺伝子(gene)に対応する脳から脳へと伝わる文化の単位として規定されている

ゼーモンの「ムネーメ」は、外界から内部に入った経験の記憶が「エングラム」として生体に刻まれ、この記憶の痕跡は次世代に伝達されるという

ラマルク的遺伝を想起させるものだが、科学的根拠が疑わしく、忘れ去れることになった

彼は第1次世界大戦直後の1918年12月27日にドイツ国旗に身を包み、拳銃で自殺している

ドイツの敗戦とその年の春に妻を失ったことで生きるエネルギーをなくしたことが原因ではないかと言われている






2022年2月1日火曜日

新しいテーマが顔を出すのか















新しい月が始まった

春の気配が感じられるかと思ったらまた逆戻りという感じだが、着実に冬は終わりつつある


今日も「医学のあゆみ」エッセイシリーズに関する読み込みをしていた

さらに検討すべきところが出てきたので、もう少しかかりそうである


ところで今朝のこと

文献に目を通していたところ、最近頭に浮かんだこととの繋がりが見えてきて、かなり大きなテーマになりそうな気配を感じた

手応えはありそうだが、少し待ってくれ!という感じである

いつものように様子を見ることにしたい