2022年8月31日水曜日
8月を振り返って
2022年8月29日月曜日
「世界」に開くということ
2022年8月28日日曜日
永遠に身を置いて、何をやろうとしているのか
2022年8月27日土曜日
「どのように」から「何を」への移行?
2022年8月26日金曜日
リマインダー: 秋のカフェとフォーラムのご案内
サイファイ研究所 ISHE の秋の催し物を改めて紹介いたします
日時: 2022年9月28日(水)18:00~20:30
場所: 恵比寿カルフール B会議室
テーマ: アラン・バディウの『幸福論』を読む
テクスト: Alain Badiou, Métaphysique du bonheur réel (PUF, 2015)
日時: 2022年10月5日(水)18:00~20:00
場所: 恵比寿カルフール B会議室
テーマ: パスツールのやったことを振り返る
パスツール(1822-1895)の生誕200年に当たり、意外に知らないその足跡を振り返ることにしました
科学での仕事を振り返った後に哲学的な側面にも触れることができればと考えています
2022年8月25日木曜日
ゲーテの言葉から(52)
2022年8月24日水曜日
ゲーテの言葉から(51)
2022年8月23日火曜日
ゲーテの言葉から(50)
Mirabeau (1749-1791)
1832.2.17(金)
「フランス人はミラボー(1749-1791)を自分たちのヘラクレスだとみているが、それはたしかに正しいことだ。しかしながら彼らは、巨像も個々の部分から作られているのだということ、それからまた、古代のヘラクレスにしても、一つの集合体であって、彼自身と他の人たちの行為の偉大な代表者にすぎないのだということを忘れているね」
「しかし、われわれが自分の欲するままにふるまっていると思っても、結局のところわれわれもみな集合体なのだ。われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようはものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ。どんなにすぐれた天才であれ、すべてを自分自身のおかげだと思うとしたら、それ以上進歩はできないだろう。しかし、きわめて多くの善良な人たちはこのことに気づかず、独創性の残骸にふりまわされて人生の大半を暗中模索しているのだよ。私は、自身がいかなる大家にも師事しないことを、むしろすべてが自分自身の天才のおかげだと自慢している芸術家たちを知っている。愚かな連中さ。それがどこででも通ると思っている。自己の愚かさも知らず、世界はまったく自分たちに迫らず、自分たちのなかから何も引き出さないと思いこんでいる」
「そもそも、外の世界を自分たちの方へ引きよせ、自分たちのより高次な目的に利用できる力と傾向がないとすれば、いったいわれわれの長所とはなんだろうか。自分自身のことを語ることにはなるが、自分で感じたことを控えめにいうのならよいだろう。私がこの長い人生において、ともあれ自慢できるようないろいろなことをやり、また成功した、というのも事実だ。しかしわたしは正直のところ、観たり、聴いたり、区別したり、選択したり、またその観たもの、聴いたものに多少の魂をふきこみ、少しは技巧に再現する能力と性向をもちあわせたほかに、これこそ私のものだといえるものがあったろうかな。私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私を取りまく無数の事物や人物にも負うていると思っているよ。愚かな人も、頭のよい人も、物わかりのよい人も、偏狭な人も、それから子どもや青年や老人もいた。すべての人がわたしに、どんなことを考えていたか、どんなふうに生き、働き、そしてどんな体験をへてきたか、を話してくれた。そして私がなしたことといえば、それを択え、他人が私のために播いてくれた種を刈りとるというだけのことだったのさ」
「けっきょくのところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するか、他人の力をかりて活動するかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。その他のことはみな、どうでもいいのだ。それゆえ、ミラボーが外の世界とその力をできるかぎり利用したとしても、それはまったく当然のことなのだ。彼には人の才能を見抜く天賦の能力があったので、その者は彼の強力な本性のデーモンに惹きつけられるように感じ、彼と彼の指図に喜んで身をゆだねたのだ。そのようにして彼は、多数の卓越した力ある人たちにとりかこまれ、彼らを自らの炎で焼きつらぬき、自らの高次な目的のために働かせたのだな。そうして彼が他人と一緒に、また他人の力によって活動することを心得ていたという、まさにそのことが彼の天才であり、彼の独創性であり、また彼の偉大なところだったのだ」
(山下肇訳)
2022年8月22日月曜日
ゲーテの言葉から(49)
2022年8月21日日曜日
ゲーテの言葉から(48)
Georges Cuvier (1769-1832)
1831.6.20(月)
「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直観から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然のふしぎな作用や支配について予感や認識をえるとすれば、彼にあたえられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔離したものを表現するにはとても十分でないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できねばならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのとき、ほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」
「最近、キュヴィエ(1769-1832)とジョフロア・ド・サン・ティレール(1772-1844)との論争のとき、私もそう思ったよ。ジョフロア・ド・サン・ティレールはたしかに自然の精神的な摂理と創造についてりっぱな考え方を持っている人だ。しかし彼のフランス語は、慣習的な表現を用いなければならないときには、まったく彼の役に立たなかったな。しかも、たんにふしぎな精神的な場合だけでなく、完全に目にみえる純具体的な対象や状況の場合でもそうなのだ。彼がある有機体のそれぞれの部分を表現しようとすれば、そのためには物質(マテリアール)という言葉以外にはないので、それで例えば、同質の部分が腕の有機的な全体を構成している骨というものを表現するにも、家をつくる石とか、角材とか、板などと同じ段階にならべて表現されているという次第だ」
「同じようなことだが、フランス人は創造物について語るとき、組立て(コンポジシオン)という表現をつかうが、これはやはり不適当だね。むろん、一個ずつつくられた機械の個々の部分を組み立ててならそういう対象をコンポジシオンとはいえようが、個々の部分がそれぞれに生命をもって形成され、共通の精神によってつらぬかれた有機的全体の各部分を意味しているなら、そういってはまずいわけだよ」
1831.6.27(月)
「彼(ヴィクトル・ユゴー、1802-1885)はすばらしい才能だ。だが、あの当時の、不幸でロマンティクな傾向に完全にとらわれて、美しいものと同時にあらゆる点でまったく耐えがたいものや、まったく醜悪なものまでも描き出している。最近私は、彼の『ノートルダム・ド・パリ』を読んだが、読んでいて苦痛になり、途中で何度やめようかと思ったことだろう。これは今まで書かれたものでは最もいまわしい本だね。また、その苦痛を耐えとおしても、人間の性質や性格が真実に描き出されているのを感じて、その苦痛を償えるだけのよろこびもない。むしろあの本には自然らしいところがないし、なんの真実もない。彼が描き出している、いわゆる行動的な人物は生きた肉と血をもった人間ではなく、あわれな木製の人形なのだ。その人形どもを彼は好き勝手にあやつり、自分の意図した効果に応じていろいろなしかめ面やグロテスクな顔つきをさせたりしている。それにしてもああいった本が書かれ、出版されるというだけではなく、まったく嫌がられもせずおもしろがられているのは、なんという時代なのだろうか!」
(山下肇訳)