2021年8月11日水曜日

別人が書いたかと思われるこのブログ















オーギュスト・コントについて調べるために、このブログを検索してみた

パリの学生生活を終えてからここに移ってきたのだが、読み返してみて驚いた

学生時代のことはかなりはっきりと覚えているが、ここに書いたことは余り記憶に残っていないのである

そのため、どこか別人が書いたのではないかと思えるものが少なくなかった

やはり学生時代には感覚器が異常に興奮していたのかもしれない

このブログはどのような気分で書いていたのだろうか

まだ分からない

ただ言えることは、このブログが今の自分にとって極めて興味深い読み物になりそうだということである

何しろ別人が書いているので、非常に新鮮に映るからだ

これまで読み返すことは殆んどなかったこのブログ、折に触れていろいろな検索をかけてみたいものである






2021年8月10日火曜日

地上の生活が一段落
















今日も日中は地上での時間となった

朝、激しい雨の中、携帯のオプション変更とうまく動かないところがあるので相談に行った

係りの人の対応がきびきびしていて、気持ちがよくなる

若い人の頭の働き方が我(々)とは違うことに改めて驚く


午後は免許更新のための講習会へ

実地も含まれているので弱点がよく分かった

夜、ほぼ1週間振りに長期プロジェに向き合う時間が取れた

最後の一塊の姿が少しずつ見えてくるように感じられるのだが、、、







2021年8月9日月曜日

フランスとのやり取りを終える


 


















このところ地上の世界に塗れていたせいか、疲れが溜まっていたようだ

今日はのんびりと過ごすことにした

携帯を持つことをしたが、その番号をフランスに電話で伝えなければならない

今日、やっとのことで変更することができ、これでフランスとのやり取りが終わったことになる

一先ずすっきりしたが、まだアメリカとのやり取りが残っている

こちらはいつになるのか、全く予想ができない


ところで、今日の風は秋の匂いがした





2021年8月8日日曜日

スマートフォンを使い始める















昨日庭に出ると、昨年発見した野イチゴが実を付けているのを見つける

昨年、8月に入らないと実を付けないことを学んだので、そろそろだと思っていた

まだ出始めという感じだが、これからさらに広がる過程を観察してみたい


昨日はもう一つ新しいことをした

何を今更という感じだが、スマートフォンを使い始めた

フランスではショートメッセージが読める小さな画面が付いた携帯を持っていたが、日本ではなかった

今回、フランスとのやり取りでショートメッセージ以外を受け付けていないところがあり、仕方なく持つことにした

それ以外に目的はなかったのだが、手に取ってみると新しい景色が開ける可能性も感じた

道具に使われるということだろうか

折に触れて使うことになりそうである






2021年8月7日土曜日

思索の対象が濾過されてきた















フランスから荷物が届いたので、昨日、参照すべき本を探してみた

よくも次から次に出るものだと思いながらの汗だくになりながら

最近では記憶も怪しくなり、背表紙や全体の印象も全く違うことがあるので慎重に確認しながらの作業となった

全体の半分程度をチェックしたが、残念ながらその中には見つからなかった

日を改めてもう半分を調べることになる


ただ、この作業の中で収穫もあった

それは、今の自分にとって必要なものがはっきりしてきたことである

つまり、それ以外は当分の間捨てておいてもよいと思うことができたことである

向こうにいる時には、全体を緩やかにではあるが抱擁するような感じがあった

この1年半の日本生活の影響か、その感覚がなくなっているのを昨日感じた


ここから次のような図が見えてくる

10数年に亘るフランス生活は、この世界にあるものに手当たり次第に触れる時間だった

「手当たり次第」とは言うものの、その時点で自分が反応したものであるのは間違いない

そして、そこを離れた時間の中で、今の自分にとって重要なものが濾過されてきたように見える

実は「今の自分」というのもこれまでの経験の結果作られたものになる

その意味では、すべての接触には意味があったことになる


これから進むべき方向がこれまでより明確になってきたように感じられる週末の朝である






2021年8月6日金曜日

フランスからの荷物届く
























昨日は引っ越しだった

フランスからの連絡では荷物を届けるだけだと言われていたので、それほど時間はかからないと予想していた

ところが届けてくれた日本側は、中身に異常がないかすべて開けて確認しなければならないと言う

これは大変なことになったと思ったが、実際、夕方から4時間くらいかかったのではないだろうか

暑さの中、汗だくになりながらお供したが、担当者は2人だけなので荷物を運び上げるだけでも大変

少々気の毒になった

これでは日を跨ぐことになると踏んで、応援を依頼していた

後半、手が離れたという3名が加わり、その後は流れるように進んだ



殆んど何もしていないのに消耗した1日が終わり、改めて考えてみた

もし荷物を置いていくだけで、あの作業をこれからやることを想像するだけでどっと疲れが押し寄せる

結局はあれでよかったのだという肯定感、満足感に満たされた快晴の朝である

これから届いた荷物を眺め直すのが楽しみになりそうだ









2021年8月4日水曜日

大雨で足止めを食らう


 


















今日は朝から用事があり出かけたが、蒸し暑い

予想以上に早く終わったので、久し振りに映画を観た

それが終わって帰ろうとしたところ、大雨でJRは運転見合わせ

こういうことが何の予告もなく起こるのが、このところの地球ということか

根比べを決め込んで、カフェで時間を潰すことにした

それもまた楽しからずや


と思って粘ったが、根負けしたようだ





2021年8月3日火曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(4)















科学は超自然に関わる問題に決着をつけることはできないが、宇宙的問題について同じことは言えないことに異議が出るかもしれない

世界は時空において有限なのか無限なのか

起源から始まり、もはや無限に開かれたユークリッド空間ではない空間の中で膨張しつつある宇宙

この宇宙はその向こうはなく、閉じている

それは明らかに、純粋理性のカントの最初の二律背反について考えるとすれば、有限主義を支持している

物質は無限に分割できるのか

今日、物質の解析はクウォークで止まっていて、クウォークの分割を可能にする実験は予定されていない

カントの第二の二律背反について考えるとすれば、科学は原子論を支持しているように見える

ここでもそれは有限主義の主張である

そうだとしてみよう

しかし、止まるのを知らないのは科学の進歩による

今日、科学が言うことを我々は知っている

明日は何をいうのだろうか

しかし、科学が今日我々に言うことを不動の真理として受け取ってみよう

宇宙や物質について科学が提供するイメージは、データから構築したイメージである

しかし、与えられたものは決して全体としての自然ではない

従って、科学による世界のイメージと、パスカルの言葉を再び使うとすれば、「その高く満ちみちた威容の内にある全自然」との間には必然的な不釣り合いがある

それは、科学が哲学者に考えさせる何かを持っていないということではない

現時点では、人間の性質について齎す新しい光によって哲学者を思考させる何かを持っているバイオテクノロジーの発見がそうである

クローン化は、いかなる心理学者も敢えて思い描くことがなかったであろう人間の解析を可能にするだろう

わたしのクローンになるもの、それが考えること、どのように行動するのかを見ることにより、本質的にわたしのものであるもの、わたしの遺伝形質ではなく、意志と自由に属するものを知ることになるだろう

モンテーニュのクローンは『エッセイ』を書いただろうか






2021年8月1日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(3)
























今月もコンシュさんを読んでいきたい

今日のところにも重要なことが書かれてある


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もし phusis という言葉をギリシア的意味として、次のように理解すると仮定する

精神、歴史、自由というような他のものと対立するものとしての自然ではなく、全体としての現実、存在の現実として

そうすれば、自然を超えるものはなくなる

形而上学的なものは何もなくなり、形而上学の対象はなくなるのである

そもそもギリシア人にはこの言葉は存在しなかった

トマス・アクィナスにとっては、形而上学(metaphysica)は超自然的なものの科学であった

ということは、「自然」という言葉が全体としての現実を網羅している哲学においては、「形而上学」という言葉は姿を消さなければならないということなのか

しかし、自然には常に与件を超えたものが存在すること

それは、物理科学が到達できるだろうことを超えたものが常に存在するということである

ただ、それは phusis を超えたものにはならない

つまり、物理科学を超えたものは存在するが、現実のすべてを包摂するものとしての phusis を超えるものはない

この意味で、我々は常に「形而上学」を語ることができるのである



それでは、超自然的なものは存在するのかどうか、それは決めることができない

長きに亘り、それを決めることができると考えられてきた

一方で、超越絵的な神の存在と、少なくとも魂の永遠の可能性は「示された」

他方、説明すべきもの、すなわち世界、を説明するためには、自然の無限性に訴えるしかなく、魂は、自然のすべての産物と同様に、死すべきものであるいことが「示された」

しかし、形而上学においては証明は存在しない

いずれかの方法で議論できるだけである

「証明」を言う人は、証拠について言う

そして証拠とは、普遍的に説得力があり、すべての疑いを排除する方法で真実を確立するという特徴がある

形而上学には、そのようなものは全くない

もしあるとすれば、哲学者の間に平和が広がるだろう

証拠とは異なり、議論は可能性を確立し、蓋然性を強めることはあるかもしれないが、常に疑いを残す

例えば、有神論者が神が存在する「証拠」をいくつか出すのを見るが、実際にはそれは議論にしか過ぎない

なぜなら、もし「証拠」があるならば、一つで十分だからだ

他方、ルクレティウスは魂が死すべきものである「証拠」を30ほど出すのを見るが、それらを併せても説得力ある一つの証拠には適わない

それは一つで十分なのである

ダランベールは、「手の届かない」ところにないとしたら、 証明はその名に値しないと言った

形而上学において、手の届かないところにない、いかなる「証明」もなく、形而上学には証明はない

演繹あるいは弁証法の総合によるのかは別にして、証明すると主張して哲学者達は体系を打ち立ててきた

ダランベールによれば、システムとは「形而上学的問題についての哲学者たちの夢」である

ジャン・カヴァイエスもまた、「システムというこの夢」について語っている

そして、パスカルはデカルトをドン・キホーテに譬えたと言われる

(デカルトは自分が造った風車と闘った)

懐疑主義が真であると言ってもよいくらいだ

疑わしい懐疑主義は、一つの立場を適合しないもう一つの形而上学的立場の前に置いたままにする

聞いてみよう

神は存在する / 存在しない、魂は死ぬ運命にあるのか / そうでないか、世界は有限か / 無限か、などと続く










2021年7月31日土曜日

7月を振り返って

























静かに過ぎた今月も最終日を迎えた

月の初めにワクチン接種を終えていたが、もうかなり前のように感じられる



相変わらず淡々と長期ブロジェに向き合っていた

その全体がぼんやりと姿を見せてきたが、明確な形になるまではもう少しかかりそうだ

以前であれば終わらそうとしてイライラしたところだろうが、次第に心持ちが変化してきている

特に今年に入ってからは、その中に入って時を過ごすというのがわたし流のやり方として固まってきた

そのため精神的な負担を全く感じなくなっている



下旬には米仏とビジネス関連のやり取りをした

パリとはメールだったのだが、途中で相手をする人が二人になり、その連携がうまく行っていないようだ

数日前に解決したと思っていたが、今度は別の人からメールが入った

ということで、地上の世界は大変である


もう一方のニューヨークとのやり取りは電話だったので、毎晩気合いを入れて対応していた

英語はほんの少しだけ慣れてきたが、調子を取り戻すにはやはり現地に行かなければ駄目だろう

このやり取りの間、この問題は現地にいればすぐに片が付くのものを、と思っていた

そして今回明らかになったのは、現地に行くしか解決の方法がなさそうだということ

現状では、COVIDが改善に向かう気配は全くしない

検査や隔離が面倒なので、もう少し様子を見るしかなさそうである



今月はまた、折に触れてエンツォ・パーチさんの科学論を読んでいた

現象学が前面に出てくるためか、今のわたしにはすんなり入ってこない

暫く寝かせておいた方がよさそうである

それに対して、読み始めたばかりのコンシュさんの哲学観はよく入ってくる

お付き合いが長いせいで、理解するための下地がすでにできているためかもしれない










2021年7月30日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(2)















哲学は、それが絶望的であれ致命的なものであれ、真理だけを気に掛ける

それでは、どの真理のことを言っているのか

それは次のものではない

天文学的、物理学的、化学的、生物学的などの現象に関する真理

世界で起こった、あるいは現に起こっていることに関する真理

社会の進化を説明したり記述したりする法則の探究

あるいは、そういうものがあるとして、精神状態や行動を支配している法則

これらすべては科学あるいは諸科学の問題である

これらの科学は、予見、準備、行動するための感覚所与(データ)を我々に知らせてくれる

科学の究極の目的は、有用性と技術である

ファラデーの法則自体に一体だれが興味を示すだろうか

誰もいないのである

しかし、電気分解は膨大な応用が可能である

技術的行為は本質的に限定的なものである

それは必要となる限定的な真理しか科学に要求しない

このようにして科学は常に部分的な真理を提供する

科学は複数でしか存在しない

科学は現実の全体ではなく、感覚所与としか関わりを持たない

そのため、唯一で普遍的な「真理」ではなく、感覚所与から確立される真理にしか辿り着かない

しかし、部分的ではない客観的な他の真理はないのだろうか


哲学が真理を目指しているとすれば、それは感覚所与から確立される真理ではなく、現実の全体に関する真理である

そのためには、感覚所与とそれを超えるものの両方を理解しなければならないのである

感覚所与を超えるものとは、一般に形而上学(métaphysique)と呼ばれる

この言葉は若干不十分である

実際には、physique(物理的)という言葉にはギリシア語のphusis(自然)が入っている

「物理的なものを超えた」ものとしての形而上学は、単に自然を超えたものではない

自然の中には感覚所与を超えたものがあるので、形而上学とは一般的に感覚所与を超えたもののことである





2021年7月29日木曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(1)















1998年12月5日、トゥールーズで行われたマルセル・コンシュさんの講義『懐疑主義と哲学の意味』から


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デカルトの死後に出た論文集にある未完の対話は「自然の光による真理の探究」と題されている

確かに、哲学の意味とはこのようなものである

「世界で最も共有されているもの」、すなわち良識あるいは理性の助けを借りて真理を探究することである

しかし懐疑主義は、真理は存在しないとか真理には到達できないという

それでは、哲学の意味は何なのか

懐疑主義者が哲学に何も期待しないのだとすれば、哲学をすることはできるのだろうか

大雑把に言えば、これが提出された問いのポイントである


ペリゴールのお城で純粋で簡素な無為に専念すると決意したモンテーニュ

彼の精神が絶え間なく生み出す「キメラと幻想的な怪物」に驚きながら、彼の思想に秩序を齎すためにそれらを書く決心をする

彼は言語の性質について省察し、ホメロスの詩を引用する

言語はどんなことでも、あるいはその反対のことを言うための言葉の豊かな基底を成すものである


わたしはフランス語の言葉の豊かな基底を自由に操る

これらの言葉をどのように関連付けるのか

何のために

あなたは何の役に立つのか

不確定の読者に語り掛けながら、モンテーニュは明確に言う

わたしはこの中で君たちの役に立つことは何も考えていない

しかし『エッセイ』は多くの人の助けになり、役に立っている

しかしそれは役に立つことを目的として書かれたわけではなかった

わたしがリセや大学で教えていた時、生徒や学生に役立つように気に掛けていた

この点では、わたしは哲学者ではなかった

哲学者は有用性について考えないからだ

最も有益なのは幸福に資するものである

つまり、哲学は幸福について考えない

ただ真理だけを考えるのである

しかし、真理はつらく、苦しく、幸福を破壊し不可能にする可能性がある

哲学と異なり、宗教は有用であるカテゴリーに属する

宗教は幸福を約束し、何をすべきか、幸福を受け獲得するためにどうあらねばならないかを命じる

そこでは真理より幻想の方が重要になる

仏教は明らかに真理を有用性の下に置く

ブッダは「人間に平和と幸福を齎すものしか教えなかった」(W・ラフラ

それゆえロジェ・ポル・ドロワは、「有用性が真理を上回っている」と明言している

究極の目的が幸福あるいは救済、至福である教えは、おそらく宗教であり、知恵だろう

この教えは哲学ではない







2021年7月28日水曜日

アメリカの影響も蘇らせては















昨日はかなり酷い英語で話をしていたが、それでも昔の精神状態が蘇ってきた

本当に朧げとしか言いようがないのだが、、

それは日本ではなかなか顔を出さない自分の姿でもあると理解される

新しい環境に入ると、それまで抑えられていたところが前面に出てきて、時間の経過とともに置換されるようになる

アメリカにいた当時はまだ若く、仕事をしていたということもあり、その影響を強烈に受けていた

それは考え方とともに行動様式にも変化を及ぼしていたはずである

同様のことはフランスでも起こっていたと思われる

しかし、こちらは外面よりは内面への影響が圧倒的に大きかったと考えている


今日本にいて、それらの言わば別人格のような存在が共存した状態であるのを感じている

それは昔は望めなかったことなので、どこか穏やかな気分にさせている

ただ、折に触れて、中にある異なる存在を再び強調させる機会を持ってもよいのではないか

それは自分の中で永い眠りについていた部分を目覚めさせることになるかもしれない


もどかしさを感じた翌日に浮かんできた感想である








2021年7月27日火曜日

何というもどかしさ



















このところフランス、アメリカとビジネス上の(?)やり取りをしている

フランスとはメールで、アメリカとは電話でだが、どちらもすぐには片付かない

フランスの場合、最初に条件を言わず、こちらが送ったものを見て必要な条件を後から言ってくる

そのため時間が掛かるのだが、もう少しで片が付きそうな感触を得ている


これに対して、アメリカの場合は口頭なので大変である

大昔にはマンハッタン・アクセントなどと言われたこともあるが、長い間使っていないので完全に錆び付いている

それと当然のことなのだが、現実世界への対応力というか意欲も落ちているようだ

今日は電話ミーティングのためにこちらに電話がかかってくる予定だったが、なしのつぶて

後から分かったことだが、会議をセットした方がこちらの電話番号を間違って聞き取っていたらしい

ということで、こちらはいつ終わるのかまだ目途が立っていない


いずれも現地にいればすぐに解決できることなので、何とももどかしい






2021年7月26日月曜日

パスカルの教訓



























疲れをとるため以外は、精神を他に転じさせてはいけない

それも適当な時に限るのである

必要な時にだけ疲れをとらせるべきで、そうでない時はいけない

なぜなら、不適当な時に疲れをとらせようとすると、かえって疲れさす

また、不適当な時に疲れさすと、疲れをとらすことになる

というのは、何もかもほっぽりだしてしまうからである

邪欲の意地悪さかげんというものはそれほどひどいものであって、人がわれわれに快楽を与えることなしに
われわれから何かを得ようとすると、それとは正反対なことをして遊ぶのである

快楽こそ、そのためにわれわれが人の欲するすべてのものを与えてやるところの通貨なのである


(前田陽一、由木康訳)










2021年7月25日日曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(13)
































Milan, 10 septembre 1958

わたしが試みようとしていることは、現象学でイタリアの哲学と文化に影響を与えることである

わたしの現象学は関係主義的で、実存主義を超えることにより現象学の思想史全体を考慮に入れたい

主要なポイントは、フッサールが1904-05年に理解したような時間と、『第5省察』と『危機』に表れた関係である

時間に関するフッサールのいくつかの未発表作品は、『存在と時間』に対する回答である

これからは、我々はもうこの回答なしにはやっていけない

実存主義は関係主義として理解される現象学に変容するのである











2021年7月24日土曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(6)



















第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(6)超越的なるものの閉塞と歴史の意味としての漸進的暴露

フッサールによれば、デカルトは日常的なありふれたものを一時中断する

超越的還元は、明々白々な人生を一時中断する

歴史的再構築、すなわち伝統と再生の関係における問題として人生を再発見するためである

デカルトの隠された意味が超越的還元であるとすれば、デカルトに隠されたままであるものは超越論そのものである

実は、彼は自分の発見を「心理主義的な」意味で誤解していたのである

彼はエゴを客観化した魂に還元し、主観主義に「再び蓋をした」のである

それはフッサールにとってみれば、アルキメデス的哲学である


フッサールは、デカルトが「わたし」と「あなた」、「内」と「外」のようなすべての区別が絶対的エゴを構成していることを理解していないと言及している

フッサールが言う「絶対」は形而上学的位置を占めるものではない

それは、我々が我々自身のどこからでも実際に始めることができないという意味での「絶対」である

科学的客観主義がデカルトに及ぼした影響は、意図的行為が行われるエゴに内在するものを問うことを無条件に妨げたのである

超越的主観主義の意味を失い、デカルトはこころを分析することになり、それは客観的心理学につながった

デカルトが発見し、同時に隠したものは志向性そのものであった

彼は世界を幾何学的に理解できると考えたのである

経験論の機能はすでに与えられたものと、理性主義の客観化された超越性に対して反応することである

客観主義的理性主義を批判することにより、経験論は真の超越論の基礎作りに貢献した

しかし、ジョン・ロックもまた心理主義的客観主義に取り込まれた

他方、デイヴィッド・ヒュームはすべての理性的に構築されたものは「架空のもの」であるとした

ヒュームとともに理性的客観主義は自爆したのである。









2021年7月23日金曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(5)

























第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(5)近代思想の歴史的背景

生活世界は自らを覆い隠す傾向がある

なぜならそれぞれの哲学者が「世界の中で」、「ありふれた日常の中で」自らを見失っているからである

同じことはグループやトレンドや時代についても言える

わたしは生まれることの中で留まることはしない・・・

すべての人に残された仕事は、ありふれた日常をエポケーすることにより、生活世界を再発見することである


我々が語ったことの中にある、間モナド性と目的論との結びつきに加えて、生活世界への還元と超越論的還元との結びつきに注目せよ

伝統の批判は、「ありふれた」伝統の批判である

より正確に言えば、それは両親から生まれたという事実の批判である

このように生まれるという中には、「閉塞された」わたしの存在やありふれた日常の中で失われたわたしの存在がある

新たにわたし自身を発見するということは、わたし自身を超越論的に還元することである

それは恰も、今わたしは超越論的還元により再び生まれなければならないかのように、わたしの中にある元々の「生活世界」を発見することである

しかし、わたしは再び生まれることはできない

今できることは、隠されたものを再び提示し、わたしに内在するありふれたものと閉塞されたものと闘うことである







2021年7月22日木曜日

エンツォ・パーチさんの科学論を読む(4)
























第一部 科学の危機と現象学における時間の問題


2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味

(5)近代思想の歴史的背景

一般的に、フッサールにとってのデカルトは近代思想の真の始祖であり、我々すべてにとっては伝統の一部である

「デカルトの背後には哲学の歴史、ターレスにまで遡る哲学者のコミュニティがある

しかしデカルトは新たに始める

『我々現代の哲学者』もまた新たに始めるのである」

我々には前任者、先祖がいる

従って、我々が新たに始めるということは、『我々が実行できる程度に応じて、記憶すべき歴史的な現在化と結び付いている』

我々は我々自身の中に、今日の哲学者としての存在の中に、今は亡き哲学者たちの『現在の状態』であった存在を現在化する

彼らは「現在の哲学者とその哲学の歴史的想起の目覚め」の中で「記憶の中で呼び覚まされる」

我々は遺産のある部分は受け止め、他の部分は批判的に拒絶する

我々は閉塞に反論し、過去の哲学者には隠されたままであったものを明らかにしようとする

その結果として、彼らは我々の中に、伝統と再生の弁証法、そして「常に現在であるもの」と「新しいもの」との弁証法で構成される「永遠の哲学」(philosophia perennis)の中に再び生き返るのである









2021年7月21日水曜日

少しだけ天空に近いところで

























今日は調べ物があり、朝から図書館へ

張り切って向かったが、求めるものの内、2冊も貸し出し中とのこと

まるで休講の知らせを聞いた時のように気分が跳ねてしまった

図書館はほどほどに、久し振りに天空に上ってみることにした

少しだけ天空に近いところに



おそらく半世紀ぶり位になるのではないだろうか

最初の登りが急なので参ったが、ロープウェイの駅がすぐで助かった

頂上のレストランでゆったりしたデジュネとなった

このようなデジュネも久し振りである

町を広く見下ろし、人生を少しだけ振り返るという感じであった

まさに My Way であり、ピアフの Non, je ne regrette rien になるのだろうか

このところ、いろいろなことが繋がっている








今日はもう一つお話ができた

家に戻ると、お隣の猫がお出迎えをしてくれた

車から降りて近づいて行っても全く姿勢を変えないではないか

これまでにも増して親近感が湧いてきた