2021年10月13日水曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(3)


























このような脱構築は、システムを解析するーーすなわちシステムをその要素に分解するーー歴史家が進めるもの(それはゲル―が見事にやったことである)とは非常に異なっている。

この違いは何から成っているのだろうか。

神学化された形而上学を解析する歴史家は、この形而上学が真であるか否かについて言明しない。

恰も真のようにやるのである。

そのため、要素は全体の中で持っているのと同じ特徴を持つ。

世界は神によって創造され、神の摂理によって支配された世界で、人間は人生の意味などを知っている神の創造物である。

反対に、わたしが神という概念を間違ったものと見做した途端、その誤りはシステムのすべての要素に拡大し、以前そうであったものに最早留まることはできず、破棄されるのである。

『形而上学を脱構築すべきなのか』

そのすべてを間違った概念に頼っている形而上学に関しては、わたしはそうすべきだと思った。









2021年10月12日火曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(2)




























わたしが『哲学的オリエンテーション』(1974)を書いた時には、形而上学の正当性が疑われていた。


このタイトルは余り良くない。

なぜなら、"la" métaphysique(唯一無二の形而上学)は存在しないからだ。

"des" métaphysique(複数の形而上学)は存在する。

デカルトの創造論形而上学は、ベルクソンの唯心論形而上学ではない。

エピクロスの唯物論形而上学は、スピノザの自然主義形而上学ではない。

さらにオーバンクは、『脱構築の試み』という副題を付けたわたしの作品(『哲学的オリエンテーション』)において、古典期(デカルトからヘーゲルまで)の神学化された形而上学を解体したことを忘れている。

神という概念を捨てたので、わたしは神という考えに関連するすべての考えを捨てなければならなかった。

すなわち、絶対的真理という考え、人間(人間本質としての)と人間の真理という考え(なぜなら、人間が神の創造物であるとしても、人間である在り方や人間としての生き方に関して一つの真理はあるから)、至高の理性により支配された理に適った全体としての世界という考え、普遍的調和という考え(なぜなら、絶対悪が調和を乱すから)、全体という考え、それに関連して、普遍的秩序という考え(なぜなら、絶対的無秩序があるから)、そして最後に、存在という考え(なぜなら、存在としての神は存在を生み出すが、神が廃止され、存在は存在の見かけに過ぎなくなっているから)である。








2021年10月11日月曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(1)

























コンシュさんの『形而上学』の続きを読むことにしたい

まず、何度かに分けて「プロローグ」から

言葉の意味をゆっくりと探りながら進みたい


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わたしは「形而上学」を実在の全体についての「自然の理性による」 (デカルト)言説であると理解している。

形而上学の伝統的な定義を「存在の科学」とするところで止めない。

まず、形而上学は科学ではない。

なぜなら、科学は知性の合意を実現するが、形而上学は相互排他的な形而上学に複数化するや否や、知性の不一致を認めるからである。

それから、わたしは、マルシャル・ゲルー同様、「存在」という言葉より「実在」という言葉の方がよいと思っている。

ラシュリエは、「わたしは、一般的な存在と存在の全体という二つの意味において、形而上学が存在の科学に再びなることを願っている」と書いた。

わたしは、次のように修正するとすれば、この定義を受け入れることができるだろう。

すなわち、形而上学とは「そのものとしての実在と実在の全体という二つの意味において、実在についての理性による言説」である。

もし「存在(être)」という言葉を伴った定義を望むとすれば、形而上学とは真に存在するもの(ontôs on)と、「存在するもの」(on)にとって「存在」(einai)が意味するものについての言説(logos)である、とわたしは言うだろう。






2021年10月10日日曜日

荷物整理で、この十数年を味わい直す
































相変わらず、フランスの荷物の整理を日課にしている

資料関係についてはすべて確認して選別した

いずれ役に立つ時が来るかもしれないとしていたものでもその対象となった

新たな出発を考えたのかもしれない

ということで、残っていた資料関係の段ボール十数個はすべて片付いた

それから別の段ボールからは向こうの日常の中で使っていたものが出てきた

それは現在の生活に必要不可欠ではないのだが、少しずつ取り込むようにしている

二つが融合する様は、なかなか良い感じである



この過程で、荷物置き場として想定していたところが、生活の場としても使えそうなことが見えてきた

仕事のスペースも確保できそうである

今日、それが一歩前に進んだ

床には本の類が半分くらいそのままの状態になっているが、ひょっとすると今月中に一段落できるかもしれない

そんな期待が湧いてきた



それにしても、この程度の労働で結構疲れることに驚いている

単純に体力の衰えによるのか、過去を経験し直すことの精神に与える影響も関係しているのだろうか

十数年ともなると、かなりの「もの・こと」に触れていることが今回分かった

切っ掛けがなければ、このような過去の一断面が浮き上がってくることはなかっただろう

記憶と経験を豊かにするのが、今回残した資料であるとも言える

それだけのものがこの身に詰まっていると思うと、やはり愕きを禁じ得ない

それが疲れの真の原因だろうか









2021年10月9日土曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(4)






























快晴の週末

快適である

まさに、紫煙日和

トンボも気持ちよさそうに今季最後?の飛行を、多くはタンデムで楽しんでいる

今日は緒言の最後のところを読むことにしたい



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2003年におけるわたしのものの見方は、今日でもわたしのものである

それは、わたしが書いたものやわたしが昔明らかにしたものに頼っているのでは全くなく、わたしには本当らしく見えるものを、思考において、絶えず見直し、それが今日においてもまだ真実らしく見えることを確認しているのである

それ加えて、2003年以来わたしは無駄に生きてきたのでは全くない

わたしの5巻になる『奇妙な日記』の中で、わたしの具体的な人生のいろいろなエピソードに多くのスペースを割いたが、哲学のいくつかの領域に踏み込むことも楽しんだ

しかし、本書の各章で分かることは、長年に亘ってわたしの思考が最も執拗に行われたことーーすなわち、わたしの無限の感情ーーについてである

わたしは今、無限の核心に関するすべてのことを観、考える人としての哲学者を定義しようとしているほどである

確かに、それは形而上学的経験に関するものだが、『奇妙な日記』の中で詳述したものを含めたわたしのすべての経験の根底にあるものなので、最終的にこの『日記』は哲学者としてのわたしの存在と無関係には見えない


2011年12月


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この中で、「無限の感情」と「無限の核心に関するすべてのことを観、考える人としての哲学者」という言葉に反応

この感覚はわたしの中にあるものとも通じる

5年ほど前に、このことに関連するエッセイを書いたことがある

比較的気に入っているものの一つで、わたしが親和性を感じているストアにも繋がりそうである

ご参考までに










2021年10月8日金曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(3)



















(23)道徳は意見の問題ではない。それは対話という単純な事実とそれが包含するものに基づいている、すなわち道徳は、対話においてすべての人間が対話者を対等であると認めることから正当化されるのである(『道徳の基盤』、PUF)。

(24)我々の時代が持っている形において、すべての人がすべての人を助ける義務としての道徳的義務は、世界内存在(Dasein)の本質的特徴で、それは今日の我々のものである(『愛と他の主題の解析』、第2章、PUF)。

(25)道徳は一つだが、倫理は複数ある。道徳は無条件の義務という概念を含むが、倫理はそれぞれの自由な選択に属している。

(26)幸福の倫理(幸せであるために生きること)は、可能な倫理の一つにしか過ぎない。

(27)人間が「真に」存在する在り方はいくつもある。その存在の真実において、人間は自己原因(causa sui)である(『明日のためにどんな哲学?』第4章、§3、PUF)。

(28)知恵は形而上学と整合性のある倫理である。

(29)悦びにも幸福にも導かない悲劇的な知恵は、可能な最大の価値を、長くは続かないにもかかわらず生命と作品(仕事)に与えることを狙っている(『哲学的オリエンテーション』、第7章、PUF)。

(30)人間にとって、自分が持った生以外の生は存在しない。

(31)我々は不確実さの中を進む。未来は短期的なことを超えては予知できない。

(32)幸福が、その性質上、期待されることも望まれることもなくやって来る時、賢者はそれを感謝の気持ちで受け入れる。

(33)戦争は、子供は理解できないという理由で行われ、他方、すべての戦争は無垢の人が初めて殺されたところで不正義になるので、賢者は如何なる戦争にも参加しない。しかし、彼は「侵略者に抵抗してはいけない」とは言わないのである。

(34)生命の意味は、我々の後に来る人達への愛である。

(35)作品(仕事)の意味は、この愛の中にある。


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これがコンシュさんの哲学の35のエッセンスである

この中でわたしに訴えかけてきたのは、最大の価値を生命と作品(仕事)に与えよ、という悲劇的な知恵であった

そして、生命の意味を後に続く人たちへの愛の中に、作品(仕事)の意味をその愛の中に見る

しかしそれは悦びにも幸福にも導かないという意味で悲劇的というのだろうか

もう少し考えてみたい







2021年10月7日木曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(2)
































(11)哲学するということは、現れたものの全体について瞑想することである。その全体はすべての見方を提示し、それぞれが語ることができる。それは現れていないことからではなく、証拠ではなく信念の対象から出発するのである。

(12)デカルト主義、カント主義、ヘーゲル主義のように、一度前もって与えられ自主性を喪失した哲学は、その解析の一部にどのような価値があろうとも哲学と神学の混合であり、神学化された哲学である。

(13)一神教の神は特定の文化に関連した文化的対象であるのに対して、自然はすべての人間に証拠とともに提示されたものである。

(14)自然以外には何ものも存在しない。それが全体である。何ものもそれを限定しない。したがって、自然は無限である。

(15)自然は一つの存在ではない。在り続けるものとして自然を理解すれば、それは「存在」である。しかしこの意味において、存在は生成を排除しない。

(16)自然は発展、分割、原因の連鎖や連続としてではなく、即興として理解されるべきものである。自然は詩人なのである(参照:『不確実性』、第7章§4、PUF)。

(17)世界は自然の表情にしか過ぎない。そして、無数の世界がある(それぞれの生物はその世界の中で生きている)。自然は多種多様な表情を持っている。

(18)科学は自然の全体を相手にしていない。ビッグバンの宇宙は宏大さの中では取るに足らないものである(参照:パスカル『パンセ』、ブランシュヴィク版、断片72)。

(19)自然は古代ギリシアの「フュシス」(phusis)である。すべてを包み込むものとして、自然はその中に人間を含んでいる。

(20)すべてのものの「場」、あるいは宇宙を「包み込むもの」としての「自然」の一つの哲学は、精神との調和を実現できなければならない。そしてその哲学は、グローバリゼーションの時代に哲学的エキュメニズムを可能にするべきものであり、それは自然科学者の英知なしには進まないのである。

(21)自由とは、それなしには真理に開く能力が存在し得なくなる条件で、それが人間である(そして、それが動物との違いである)。

(22)いくつかの形而上学はあるが、道徳は一つしかない。われわれの時代にとって道徳的に絶対的なものは、人権の道徳である。









2021年10月6日水曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(1)
































マルセル・コンシュさんが2012年に出した『形而上学』(PUF)の緒言を読んでみたい

形而上学についての見方がそこにあることを期待して


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緒 言

2003年にアンドレ・コント・スポンヴィルの質問に答えながら、わたしの哲学を35に纏めたが 、それにいくつかの修正を加えてここに取り上げる。

(1)哲学は現実の全体、および全体の中にいる人間の場についての「自然の光による真理の探究」(デカルト)である。

(2)「現実」あるいは「存在」という言葉の意味は自明ではない:「存在」(einai)の意味の問題は問われなければならない(参照:モンテーニュ『エッセイ』第2巻、第12章、PUF)。

(3)我々のものである「縮められた」時間の観点から見ると(参照『自然の存在』、第6章、PUF)、存在するとは存在する本質(ousia)である(例: 一匹の蜂がある)。

(4)存在しないものの本質はない(プラトンにも拘らず)。

(5)自然のものである無限の時間の観点から見れば、人間を含めたすべての存在は儚い見かけのものに過ぎない:そこから相関しない(相関するものを持たない)(n’ayant pas l’être pour corrélat)としての見かけという範疇が出てくる(『ピュロン、あるいは出現・外観』、PUF)。

(6)哲学は幸福の探求でもなければ、真理を所有する英知(知恵)の探究でもない。なぜなら、(絶対的)真理を所有することは不可能であるからである。しかし、哲学の条件として英知(知恵)がある。なぜなら、ある種の英知(知恵)(内的平和や本質的ではないことへの無関心から成っている)がなければ、真理の探究に身を捧げることはできないからである。

(7)実在の全体を理解する試みとしての哲学は「形而上学」と言われ、その名に値するすべての哲学は何よりも形而上学的なのである(参照:デカルト『哲学原理』のフランス語版緒言)。

(8)形而上学としての哲学は科学ではなく、科学であると自称しようとする必要はない(カントの『科学として現れるであろう将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴメナ』はあるのだが)。(哲学者が全員一致するような)哲学的知はない。一つの哲学は理性だけではなく、人間のすべての可能性に訴えかける試みなのである(参照:プラトン『国家』VII、518ⅽ)。

(9)一つの哲学は一つの個性を刻んでいる。

(10)異なるやり方で理解できる実体の全体、いくつかの形而上学が可能である。その選択は証明によるのではなく(形而上学に証明はないからである)、瞑想による。(参照:デカルト『省察(第一哲学についての省察)』)。







2021年10月4日月曜日

時間は思索を深めるか

























先週だっただろうか

荷物の整理を終え、窓の方に目を上げると、擦りガラスが真っ赤になっているではないか

窓を開けると雨上がりの夕焼であった

もっと強烈かと思ったのだが、、

いかにも日本の風景だが、写真に収めた



去年のブログを読み返していた

「長期プロジェ」という言葉がよく出てきて、今にも終わりそうな感じなので驚いた

一体いつから同じことをやっているのか、という印象である

フランスからの荷物の中からも同じようなのが出てくる

こういうのを見つけた時には嫌になる


しかし、一つのことに対する見方が固まるには、それだけ時間を要するということを意味しているのではないか

その時間は見方を深めるために寄与しているのではないか

そして、それはどこかに表れるのではないか

そう考えて、歩みを進める







2021年10月3日日曜日

紫煙の効果


























今朝は気持ちの良い朝であった

プティ・デジュネの後、紫煙を燻らす

未だに不思議なのだが、庭に向かってぼんやりする時に紫煙があるのとないのとでは違いがあるのだ

紫煙がある時には考えが刺激されるのか、以前に書いたものについてのアイディアが生まれることが多い

偶に、新しいアイディアが出てくることもある

久し振りにやった後は倦怠感を覚えることもあるのだが、なかなか止めることができないのである

ところで、先日気付いた薄紫の花だが、まだ衰えることなく庭一面に咲き誇っている

今年の特徴であると思いたい

[ という願望だったが、念のため昨年のブログを見たところ、ちゃんと同じような写真が出ている

記憶は全く当てにならなくなっているーー4 octobre 2021 ]



これからフランスが感じられる場に身を移し、考えを纏めたり、荷物の整理などをすることにしたい

今日はどんな展開が待っているのだろうか









2021年10月2日土曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(17)

























ということは、我々を記憶するために後から来る人を当てにしているということなのか

ソクラテスは自分の記憶を守るために、クリトンやパイドンやユークリッドやプラトン等を頼りにするということなのか

そうではない
最初の人間の記憶はない

その後に来る人の記憶もない 

後から来る人においてもその記憶はないのである
『コヘレトの言葉』はそう言う

それでもよいだろう

しかし、わたしの魂の子(生物学的な繋がりがあるかないかに関わらず)の中に、わたしが存在したという本質において再び生きるとすれば、わたしの記憶がなくなることを喜んで受け入れる

「わたしの魂の子」

哲学について、いくつかのことを除けば、わたし自身の見方を持っている職業哲学者

その結果、できる限りの満足を得るために、彼らを愛するだけで十分なのである

わたしを覚えてくれるという満足がつまらないということではなく、それはおまけで来るということである



わたしは「哲学の意味は何か」と問うた

わたしが知っていることはまず、その結果がどうであれ、真理の探究として、それ自体に意味があるということである

それはわたしの人生の意味であったし、現在もそうである

そして最後に、ソクラテスの例に倣い、哲学は死を消し去る愛をわたしに教えてくれたことである



このように、生きているが人生の最後に辿り着いた哲学者にとって、哲学の意味は哲学それ自体を超え、愛の知恵に身を委ねることである

「哲学は何に導くのか」とわたしは尋ねられる

最初の回答は「何ににも(導かない)」であり、第二の回答は「愛することへ(導く)」である



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このエッセイは、哲学を超えたところに何があるのかに興味を持って読み始めた

わたしの想像していたものは出てこなかったが、哲学が我々に与えてくれる大きな力を見せられた思いである

それが哲学の向こう側にあるものなのだろう

それは昔から聞いていたような気がする「死をアプリヴォワゼする」ことと関連したもので、それによって死を恐れなくなる力を与えてくれるのだという

そして、その源泉は隣人を愛することから生まれるという結論であった

理論や体系としての哲学ではなく、生き方としての哲学の力ということになるのだろうか

哲学に対する見方が少し変わったような気がする

そして今、哲学の向こう側に何があるのかを探る、わたしなりの旅の道行にあることを感じている

良い読みとなった








2021年10月1日金曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(16)




哲学において、誰がソクラテスを「超えた」と言えるだろうか

彼は知り得ることすべてを知っていた

抽象的な空間で、我々はどのようにより進歩したのだろうか

人間の状態は無知の状態である

彼はどのように生きるべきかを知っていた

死の瞬間には、一方で自分が送った人生に同意の眼差しを、他方、未来に対する自信の眼差しを送ることができるように

なぜなら、我々が愛した人たち、そして我々の理想において我々に似ている人たちが我々の人生を続けるからである



伝説によれば、カントは死に際して、「これでよい」と言ったとされる

彼はプロイセン人をより良くしようとしてケーニヒスベルクの通りを歩いたわけではなかった

しかし彼は、おそらくそれよりは容易であった『純粋理性批判』を書いた

ソクラテスのミッションを決めた神は、「哲学をしながら、自分自身と他の人を吟味しながら生きる」という仕事を彼に割り当てた

この神は、この仕事が永久に他の人のものであることを望まなかったのである

それはただ一人ソクラテスのものであり、あり続けている

したがって、ここでのソクラテスはモデルでもなければ実例でもなく、例外なのである

しかし、最後に「これでよい」と言うことができるように生きる方法はいくつもある



ところで、ソクラテスの生き方は彼だけのものであるとしても、彼の死に方はすべての人のモデルとなる

なぜなら、どのようにして死の悲しみを消し去るのかという問題があるからだ

ホメロスの英雄たちには、永遠不滅であるという考えが齎す慰めがあり、ホメロス自身にとっては、自身の作品が世紀を跨いで生き延びるという自信があった

しかし普通の人ーーたとえ生き延びる可能性のある作品を仕上げたとしても、自身を平凡な人間であると考えるほどに謙虚な人ーーにとって、ありきたりな人間にとって、幸福な死の秘密とは何なのか

それは愛である








2021年9月30日木曜日

9月を振り返って































このところ、これまで以上に一日が長く感じられる

今月もその長い一日を、毎日、十分に刈り取っているという感覚を持ちながら過ごしていた



先月初めに届いたフランスからの荷物の整理だが、遅々とはしているが続けている

日々の違いには気付かないが確実に前に進んでおり、半分くらいを片付けたところである

できれば来月中には終えたいものである

当初は荷物を置くだけの場所と考えていたところに仕事用のスペースを作ることができそうである

現地とは比較にならないが、そこにはフランスの空気が流れているように感じられる

そのため、日常を離れて集中できる空間が生まれることになる

これは想像もしていなかったことなので、これからの展開が楽しみである



今月も長期プロジェに当たっていた

今月中にはそろそろと思っていたが、まだ見えそうで見えないゴールという感じである

これまで長い年月を要しているので、纏めることができるとすれば幸いなことである

こちらも来月中には何とかしたいものである



少し離れて今月を見ると、かなりのことをやった月ということになりそうだが、全き平静さの中にある

悟りの境地に近いのではないかと疑っているが、昔を思い出すと驚くべきことである

現在のプロジェが一段落すれば、中断されている新しいプロジェが待っている

深まる秋を感じながらの歩みになるが、いずれのプロジェもどのような展開になるのか、まだ分からない

もう自分が何とかするという感覚はなくなっていて、事の成り行きを見守るという姿勢に変わっているのである








2021年9月29日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(15)
















しかし、この賢明さの源泉は何なのか

裁判官を前にして、あるいは死の瞬間においてソクラテスが覚えた充足感はどこから来るのか

モンテーニュはその説明をしていない

彼はソクラテスの力と、その力が理論哲学や学説あるいは体系からではなく、彼自身から出ているものであることを認めている

しかし、この力はどこから彼の元に来るのだろうか

もし我々が言うことができるとすれば、我々もまたソクラテスの最高のレッスンが何であるかを知ることになるだろう

彼の行動とそれを支えるエネルギーの原理を何らかの方法で隠すどころか、ソクラテスは「わたしは愛している」と明確に言う

ソクラテスがアテナイの通りや広場や公園を闊歩し、商人のカウンターの近くに立ち、店に入り、毎回、市民や外国人に「兄のように語り掛け」、彼らの質問に答え、あるいはまた彼らに質問し、問いから問いへと行きながら彼ら自身をより良くするために自分自身を知るように導くようにするのは、ソクラテスが彼らを愛していたからである

真の「隣人愛」以外の何物でもないソクラテス的愛で愛すること

それはより良くしたいということである

自分自身のことは気に留めず、仲間の市民をより良くすることだけを気に掛け、ソクラテスはアテナイの人々の中で一日を過ごす

30年の間、彼は彼らを愛することだけをやり続けた

彼が自身の人生に目をやった時に生まれる充足感はそこから来るのである


そこからまた、死の瞬間の充足感も生まれるのである

「クリトンよ、我々はアスクレピオスに一羽の雄鶏の借りがある」がソクラテスの最後の言葉であった

彼は一人ではなく、正真正銘の子、彼の魂の子に囲まれて死ぬのだから、そして彼は彼らの中で生き続けるのだから、彼は死を解放し、癒したのである







2021年9月28日火曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(14)
































モンテーニュによれば、ソクラテスのレッスンとは、人間が自身の置かれた状況に向き合うために、宗教や哲学の助けを借りずに、純粋に勇気だけの力によって、自らが進んでどれだけのことができるのかを示すことである


人間による判断は普通、ソクラテスにおける自然さの完成を評価するには、余りにもまがい物でひけらかしの価値観に屈している

彼からは「穢れのない確かな眼差し」だけが発見できる「秘密の光」が発している

ソクラテスにおいては、賢者や常に最高の状態にいる人を認識するためにはーーその人の魂は自分自身ならびに世界と完全な調和を保っていて、言わば哲学者の理想の実現であるのだがーー、準備された視線が必要になるのである







2021年9月25日土曜日

これまでの蓄積を篩にかけ、地盤整備をする

























フランスから荷物が届いてから、もう少しで2か月になる

本の類は箱から出して床に置かれたまま、ファイル関係は二十数個の箱に入ったままであった

暫くはそのままにしておいたが、少しずつ手を付けるようになり、このところ毎日1~2時間は整理にあたっている

その結果、整理すべきものがいずれも半分くらいになってきた

ファイル関係は躊躇なく捨てられるものの判別がすぐにできるようになっているのも、この作業を楽にしている

資料の中からマスターの時のものが出てくると懐かしさがこみ上げてくる

もう13~4年前のことになるのだが、、

また、現在取り掛かっているプロジェに直結するものが出てくると、新たな考えが触発されるように感じることもある

全体として見ると、これまでに溜まったものを篩にかけ、これからに向けて地盤を整備しているような感覚が生まれている

それが可能になっているのも、COVID-19がそれまでの日常を断ち切ってくれたからだろう

このような否応なしの外的要因がなければあり得なかったことなので、今のところだが、COVID-19の良い影響として数えておきたい








2021年9月24日金曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(13)
































わたしは今、最も大きく最も重要なアテナイとその哲学者に対する恩義を自問している

それが哲学だとは言わないだろう

哲学は確かにギリシアのものではあるが、ディアスポラの中で生まれたものである

わたしは、プラトン、アリストテレス、エピクロス、ゼノン、ピュロンに恩義を感じている

全ての哲学者がその名に値するが、格別の恩義を感じているのはピュロンである

もし、まず何よりもわたしが感謝しなければならない人について考えるとすれば、名前が浮かんでくるのはソクラテスである



愛だけが人生を休むことなく人生を超えて輝かせる

わたしがソクラテスに負っているのは、愛のレッスンである

そして、ここでわたしが思い浮かべているのは、プラトンの『饗宴』におけるソクラテスの見事な演説ではなく、生きそして死ぬ、生身のソクラテスである



モンテーニュには主題が「最も優れた人間」であるエッセイが一つある

それは、ホメロス、アレクサンダー大王、エパメイノンダスという三人のギリシア人である

最後のエパメイノンダスが「最も優れている」

その上、「ギリシア人は彼らの中で異議を差し挟むことなく第一級の人間であるとする栄誉をエパメイノンダスに与えたのである。ところで、ギリシアで第一級ということは、世界で第一級ということである」

このエッセイは1578年頃書かれた

何年か後、モンテーニュはソクラテスのことを忘れなかった

エッセイの第3巻、最後の一つである第12章「人相について」でソクラテスの素晴らしい描写をしている

その時おそらく、ソクラテスはアレクサンダー大王に取って代わったのである







2021年9月23日木曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(12)

























しかし差し当たってはーーポール・ヴァレリーに同意しようーー「生きようと試みる(いざ生きめやも)」でなければならない

空から地上に戻り、人間に戻ろう

ディアスポラのギリシア人哲学者の思弁の迸りは雄大である

しかし、もし単に善く生き、善く死ぬための助言や実例を求めるのであれば、彼らに問いかける場所はエフェソスやエレアよりはアテナイだろう

すべてのローマ人の中で「ギリシア人の正真正銘の唯一の弟子」であるルクレティウスはーーと、シモーヌ・ヴェイユはいつものように少し極端に言うのだがーー、神のようなエピクロスの「名言」を集め、楽園の幸せな共同体を夢見る

ローマ人であるかもしれない他の者は、厳しいゼノンの教えを好み、自分には不屈の気力が可能であると考える

ボスとしてディオゲネスを自分のために選び、彼らの目には的を射るように見えるボスのセリフを何度も繰り返す人もいる

しかし、教養ある人、学者、そしてこの世界、人間社会にやや失望している人は、勿論、プラトン、あるいはおそらくアリストテレス以外の師は望まない

そして、プラトンを師としたのである








2021年9月22日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(11)
























しかし、古代ギリシアの哲学者の間でも、人が置かれた時期によって興味が移り変わる

ある人は、マルクスがエピクロスについて博士論文を書いた時から、おそらく不適切にも「唯物論者」を呼ばれる哲学者を調べる

超越の迸りにより動かされた他の人は、ジャン・ヴァールが言ったように、新プラトン主義者に向かう

しかし、ニーチェは挑発としてこの言葉を発する(わたしは現在形で語る、なぜならニーチェは昨日のものである以上に今日のものだからである)
真のギリシアの哲学者は、ソクラテス以前の哲学者である

そしてニーチェは序列を付けるポーズで、ソクラテス以前の哲学者を彼らの後に来る者より必然的に優れていると言う

彼らはすべて、人々や習慣から離れて生きる秀でた人たちである。成熟し、陰鬱になるくらい重々しく、ゆっくりものを見る視点を持ち、政治や外交に暗いということも全くない。彼らは賢者の前に「ものこと」のすべての重大な概念を発見し、これらの重大な概念を表現し、そしてそれらを体系に還元する。この突然の原型の増大、哲学的理想のすべての偉大な可能性を完全なまでに作り上げるこの無意識のやり方より高度なギリシア精神を示すものは何もない。 

ところで、ニーチェはヘラクレイトスに傾いており、こう言っている

わたしが善悪を超えた神の遊びとしてこの世界を思い描く時、ヘラクレイトスがわたしの先駆者である

 ヘルマン・ディールス版の断片52を思い起こしてみる

時間はチェスの駒を動かして遊ぶ子供である。子供の王国なのである

しかし、「在る」ことを前に初めて驚いたのはパルメニデスである

ヘラクレイトスが「哲学の正真正銘の困惑」に他ならない「弁証法の方向への第一歩」を記した以上、ハイデッガーもまた、「より深く、より本質的である」と判断してパルメニデスに傾いている

このように、振子はヘラクレイトスとパルメニデスの間を揺れ動いており、それは哲学が続く限り続くだろう







2021年9月21日火曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(10)

























このように、哲学者の社会では特別に選ばれた関係が生まれる

しかし、誰もが無視できない哲学者がいる

それが古代ギリシアの哲学者である

彼らは今日、フランス、ドイツ、あるいはその他の哲学者と同じ状態にある

興味や親和性に応じて外国でも知られているのである

しかし、古代ギリシアの哲学者はすべての人に知られ、すべての人により常に考察され、研究され、解釈され、そして再解釈されている

勿論、すべてが均等にではないとはいえ

アランに関する文献は殆どがフランスのものだが、ヘラクレイトスのものはすべての文化言語における研究が含まれている

プラトンについて語ることはしないが、