2021年10月7日木曜日

コンシュ『形而上学』の緒言(2)
































(11)哲学するということは、現れたものの全体について瞑想することである。その全体はすべての見方を提示し、それぞれが語ることができる。それは現れていないことからではなく、証拠ではなく信念の対象から出発するのである。

(12)デカルト主義、カント主義、ヘーゲル主義のように、一度前もって与えられ自主性を喪失した哲学は、その解析の一部にどのような価値があろうとも哲学と神学の混合であり、神学化された哲学である。

(13)一神教の神は特定の文化に関連した文化的対象であるのに対して、自然はすべての人間に証拠とともに提示されたものである。

(14)自然以外には何ものも存在しない。それが全体である。何ものもそれを限定しない。したがって、自然は無限である。

(15)自然は一つの存在ではない。在り続けるものとして自然を理解すれば、それは「存在」である。しかしこの意味において、存在は生成を排除しない。

(16)自然は発展、分割、原因の連鎖や連続としてではなく、即興として理解されるべきものである。自然は詩人なのである(参照:『不確実性』、第7章§4、PUF)。

(17)世界は自然の表情にしか過ぎない。そして、無数の世界がある(それぞれの生物はその世界の中で生きている)。自然は多種多様な表情を持っている。

(18)科学は自然の全体を相手にしていない。ビッグバンの宇宙は宏大さの中では取るに足らないものである(参照:パスカル『パンセ』、ブランシュヴィク版、断片72)。

(19)自然は古代ギリシアの「フュシス」(phusis)である。すべてを包み込むものとして、自然はその中に人間を含んでいる。

(20)すべてのものの「場」、あるいは宇宙を「包み込むもの」としての「自然」の一つの哲学は、精神との調和を実現できなければならない。そしてその哲学は、グローバリゼーションの時代に哲学的エキュメニズムを可能にするべきものであり、それは自然科学者の英知なしには進まないのである。

(21)自由とは、それなしには真理に開く能力が存在し得なくなる条件で、それが人間である(そして、それが動物との違いである)。

(22)いくつかの形而上学はあるが、道徳は一つしかない。われわれの時代にとって道徳的に絶対的なものは、人権の道徳である。









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