ヘーゲル流の絶対的観念論(ヘーゲルにとっての形而上学は絶対についての壮大な思考にしか過ぎず、その全体は絶対的なるものの絶対的思考を構成している)を認めるのでない限り、形而上学は同時にすべてが真ではあり得ないと言わなければならない。
すなわち、神は永遠である、あるいは、それは自然、精神、あるいは物質などである、となる。
しかし形而上学はまた、一貫性があるのではなかったか。
恐らくそうだろうが、誰がその一貫性を判断するのか。
それは、それぞれの形而上学について、その形而上学の支持者であり、他の形而上学の支持者ではない。
スピノザの体系はスピノザとスピノザ主義者にとって一貫性があるのであり、マルブランシュには当て嵌まらない。
わたしが有神論的形而上学(デカルト主義者やマルブランシュ、ライプニッツ、カントなどの)を拒絶したのは、世界を支配するこの上なく善良で全能な神が、同じ世界の中での悪の現実(とくに、わたしが「絶対悪」について話したことに関連する子供の犠牲者の苦しみ)と矛盾するようにわたしには見えたからである。
しかし、神を信ずる人はこの矛盾を否定し、「悪の神秘」という概念によって有神論的形而上学は依然として一貫性があると主張することができるのである。
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