「気晴らし」というのは、哲学者が拒否するまさにそのものである。
哲学者は自分自身の外に自分を置く活動に打ち込むことを完全に避けることはできない。
確かに、哲学者の孤独は人が住んでいるところでの孤独である。
彼は自分自身と対話すると同時に、過去、現在の哲学者とも対話する。
しかし、他者を研究することで、新たなリスクが入り込む。
それは歴史科学や博識の中に(哲学者としての)自己を見失うことである。
そこから自分が成りたいものを見失い、歴史家に変容した哲学者が生まれる。
(勿論、わたしは歴史家の仕事を軽視したいわけではない!)
人々は、わたしが哲学の歴史書を書いたと言うだろう。
まあよいだろう。
しかし、わたしが書いた時点においてある哲学者に興味があったとしよう。
真理に近づきそれを捉え、あるいは真理に向けた運動を彼らの中にわたしが見た人たちである。
近代の神学哲学者について研究する場合には、偽の中で仕事をしている感覚を持っただろう。
ある哲学者が言ったこと、あるいは言いたかったことを、それが真か偽かを自問することなく説明するだけで済ませる誘惑にかられるのである。
しかし、問われるべきはこの問題なのである。
歴史家にとどまるのでない限り、ある著者を自分で哲学することなしに研究することはできない。
ジャン・ヴァールはそのことを知っており、模範を示したのである。
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