しかし、すべての社会において哲学が一つの回答を与えることができるわけではない。
哲学は、宗教が思考に対して優先的に権利を行使していないところでしか存在し得ない。
このような状態はギリシアで、そしておそらくギリシアだけで突然出現したのである。
なぜならギリシアでは、聖職者が真理そのものの探究――それが哲学である――を排除する「信仰の真理」を教えなかったからである。
聖職者は、子供の精神を思考のために自由にさせたのである。
従って、哲学者になるとは、ある意味でギリシア人になることである。
前もって与えられた真理なしに――すでに決められた「人生の意味」なしに――人生に取り組むギリシア的なやり方への回帰。
これを近代の主要な哲学者はやらなかった。
そのため、デカルト、カント、ヘーゲル、そして彼らの弟子や先人には、神学化された哲学しかない。
彼らは哲学と宗教の和解を行ったが、このような和解は常に哲学と真理の犠牲の上に起こるのである。
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