コンシュさんの『形而上学』の続きを読むことにしたい
まず、何度かに分けて「プロローグ」から
言葉の意味をゆっくりと探りながら進みたい
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わたしは「形而上学」を実在の全体についての「自然の理性による」 (デカルト)言説であると理解している。
形而上学の伝統的な定義を「存在の科学」とするところで止めない。
まず、形而上学は科学ではない。
なぜなら、科学は知性の合意を実現するが、形而上学は相互排他的な形而上学に複数化するや否や、知性の不一致を認めるからである。
それから、わたしは、マルシャル・ゲルー同様、「存在」という言葉より「実在」という言葉の方がよいと思っている。
ラシュリエは、「わたしは、一般的な存在と存在の全体という二つの意味において、形而上学が存在の科学に再びなることを願っている」と書いた。
わたしは、次のように修正するとすれば、この定義を受け入れることができるだろう。
すなわち、形而上学とは「そのものとしての実在と実在の全体という二つの意味において、実在についての理性による言説」である。
もし「存在(être)」という言葉を伴った定義を望むとすれば、形而上学とは真に存在するもの(ontôs on)と、「存在するもの」(on)にとって「存在」(einai)が意味するものについての言説(logos)である、とわたしは言うだろう。
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