2021年10月11日月曜日

コンシュ『形而上学』のプロローグ(1)

























コンシュさんの『形而上学』の続きを読むことにしたい

まず、何度かに分けて「プロローグ」から

言葉の意味をゆっくりと探りながら進みたい


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わたしは「形而上学」を実在の全体についての「自然の理性による」 (デカルト)言説であると理解している。

形而上学の伝統的な定義を「存在の科学」とするところで止めない。

まず、形而上学は科学ではない。

なぜなら、科学は知性の合意を実現するが、形而上学は相互排他的な形而上学に複数化するや否や、知性の不一致を認めるからである。

それから、わたしは、マルシャル・ゲルー同様、「存在」という言葉より「実在」という言葉の方がよいと思っている。

ラシュリエは、「わたしは、一般的な存在と存在の全体という二つの意味において、形而上学が存在の科学に再びなることを願っている」と書いた。

わたしは、次のように修正するとすれば、この定義を受け入れることができるだろう。

すなわち、形而上学とは「そのものとしての実在と実在の全体という二つの意味において、実在についての理性による言説」である。

もし「存在(être)」という言葉を伴った定義を望むとすれば、形而上学とは真に存在するもの(ontôs on)と、「存在するもの」(on)にとって「存在」(einai)が意味するものについての言説(logos)である、とわたしは言うだろう。






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