今朝、新しいアトリエに向かう途中、太く低く弧を描く虹が目の前に現れた
なぜか嬉しくなった
その気分に押され、再びコンシュさんの話に耳を傾けることにしたい
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哲学者は宗教的な寓話、一般的には集団が共有する幻想をすぐに否定して横に置くこと。
そして、自分に還ること。
すなわち、意識が直に受け取る情報ではなく――それは、なぜ意識が特別に存在するのかという問いに関わる――、そこに存在する人間に、そして恰も今この世界に来たばかりであるかのような人間に還ること。
親や教師の信条を教育されることにより自己を失うことなく、ただ自らの理性をもって。
この世界に来るとはどういう意味か。
それは二つのことを意味している。
「空間によって、宇宙はわたしを包み。一つの点としてわたしを飲み込むが、思考によって、わたしは宇宙を包む」とパスカルは言った(『パンセ』、Br. 断片348)。
まず、わたしがそうである開かれた存在に関係するものとして世界がある。
その考えが宇宙に広がる前に、森の樵は樵の世界と関係を持っている。
それは丁度、散策者が散策者の世界と関係を持ち、画家は画家の世界と関係を持つようなものである。
このように、「わたしはあなたのところ(ため)にいる(何でもおっしゃってください)」(Je suis à vous)と言うように、我々は世界に在る(On est au monde)。
しかし他方、我々は世界の中、地球のどこかの場所にいる(On est dans le monde)。
従って、空間の問題になる。
一方で、われわれに開いている世界、開かれた存在としての人間(Dasein)との関係を内に持つ世界がある。
しかし他方では、他の生物と同様に人間に対しても超然としている世界があり、その中に彼らを含んでいる。
ところで、哲学者はどちらかの側に位置している。
一つは、世界は自身の前にあり、そこには開き(Offenheit)がある。
デカルト、カント、サルトル、フッサール、ハイデッガーの哲学のように、コギト、主体、主体性、存在、時間性、ダーザインの哲学がある。
あるいは、世界は我々を包み込む住まいであり、そこでは他者とともに存在している。
スピノザ、モンテーニュ、唯物論者だけではなく広く古代ギリシア人の哲学のように、存在、生成、時間、コスモス、絶対、絶対的現実の哲学がある。
エゴから、あるいは世界(コスモス)から哲学する。
我々は選択しなければならないのだろうか。
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