快晴の週末
快適である
まさに、紫煙日和
トンボも気持ちよさそうに今季最後?の飛行を、多くはタンデムで楽しんでいる
今日は緒言の最後のところを読むことにしたい
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2003年におけるわたしのものの見方は、今日でもわたしのものである
それは、わたしが書いたものやわたしが昔明らかにしたものに頼っているのでは全くなく、わたしには本当らしく見えるものを、思考において、絶えず見直し、それが今日においてもまだ真実らしく見えることを確認しているのである
それ加えて、2003年以来わたしは無駄に生きてきたのでは全くない
わたしの5巻になる『奇妙な日記』の中で、わたしの具体的な人生のいろいろなエピソードに多くのスペースを割いたが、哲学のいくつかの領域に踏み込むことも楽しんだ
しかし、本書の各章で分かることは、長年に亘ってわたしの思考が最も執拗に行われたことーーすなわち、わたしの無限の感情ーーについてである
わたしは今、無限の核心に関するすべてのことを観、考える人としての哲学者を定義しようとしているほどである
確かに、それは形而上学的経験に関するものだが、『奇妙な日記』の中で詳述したものを含めたわたしのすべての経験の根底にあるものなので、最終的にこの『日記』は哲学者としてのわたしの存在と無関係には見えない
2011年12月
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この中で、「無限の感情」と「無限の核心に関するすべてのことを観、考える人としての哲学者」という言葉に反応
この感覚はわたしの中にあるものとも通じる
5年ほど前に、このことに関連するエッセイを書いたことがある
比較的気に入っているものの一つで、わたしが親和性を感じているストアにも繋がりそうである
ご参考までに
哲学的感情、あるいは世界の全体をどこに見るのか(2016.2.13)
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