わたしが『哲学的オリエンテーション』(1974)を書いた時には、形而上学の正当性が疑われていた。
『形而上学を脱構築すべきなのか』(PUF、2009)とピエール・オーバンクは要求する。
このタイトルは余り良くない。
なぜなら、"la" métaphysique(唯一無二の形而上学)は存在しないからだ。
"des" métaphysique(複数の形而上学)は存在する。
デカルトの創造論形而上学は、ベルクソンの唯心論形而上学ではない。
エピクロスの唯物論形而上学は、スピノザの自然主義形而上学ではない。
さらにオーバンクは、『脱構築の試み』という副題を付けたわたしの作品(『哲学的オリエンテーション』)において、古典期(デカルトからヘーゲルまで)の神学化された形而上学を解体したことを忘れている。
神という概念を捨てたので、わたしは神という考えに関連するすべての考えを捨てなければならなかった。
すなわち、絶対的真理という考え、人間(人間本質としての)と人間の真理という考え(なぜなら、人間が神の創造物であるとしても、人間である在り方や人間としての生き方に関して一つの真理はあるから)、至高の理性により支配された理に適った全体としての世界という考え、普遍的調和という考え(なぜなら、絶対悪が調和を乱すから)、全体という考え、それに関連して、普遍的秩序という考え(なぜなら、絶対的無秩序があるから)、そして最後に、存在という考え(なぜなら、存在としての神は存在を生み出すが、神が廃止され、存在は存在の見かけに過ぎなくなっているから)である。
0 件のコメント:
コメントを投稿