まず、哲学とは何か。
わたしは、現実の全体についての真理と全体の中での人間の占める位置の探究であると言うだろう。
科学も真理を探究するが、現実の部分的側面についての真理である。
宇宙学は宇宙の全体についての科学だが、宇宙と現実の全体との間にはどのような関係があるのだろうか。
この問題は最早科学的なものではない。
「形而上学」を現実の全体を理解する試みとすれば、これは形而上学の問題なのである。
すなわち、デカルトのように哲学を木と比較すれば、その根に対応するものなのである。
カントは、『科学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ』を書いた。
彼は、形而上学を単に自然についてアプリオリに知ることができるものと理解して、形而上学における貧しさに誓いを立てている。
それによって彼は、本来は形而上学の空間を空虚にし、そうすることにより、その空間を信仰のために確保できたのである。
神を信ずる者にとって、神、世界、人間が現実の全体である。
全体性の言説としての形而上学は、科学ではあり得ない。
カント自身が、そのことを十分に示している。
そうでなければ、宗教が証明あるいは論駁され得ることは明らかである。
ただ、伝統的な意味での形而上学が科学ではあり得ないことは、全体性についての理性的な言説を放棄しなければならないことを意味していない。
「理性的な言説」という言葉は「一貫性のある言説」と理解しなければならない。
しかし、「一貫性」を語る人が必ずしも「真理」を語るわけではない。
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