しかし、精神をギリシアのように自由に開くところに回帰することが哲学に仕向けるとしても、真に哲学するためにはまだ、それがどれだけ必要であるとしても、精神が本質的でない活動に過剰に打ち込むことのないように警戒しなければならないと、わたしは言った。
まさに、それが必要であるとなった途端に、如何にその活動に没頭しないかなのである。
もし哲学者に財産がない場合、物乞いに出かけるのか。
シオランはそれができたが、わたしにはできなかった。
わたしは仕事をしなければならず、仕事の中に、そしてこの仕事に対する愛の中に我を忘れていた。
哲学者はその動物的側面の影響により、必要なものには必然的に自己を忘れる。
欲求に自己を忘れることは避けられる。
エピクロスは、愛を欲することは自然ではあるが、それは必要なものではないと言った。
しかも、他のすべての自己喪失は避けられる。
例えば、才能に我を忘れること。
わたしが芸術家の才能を持っていたとした場合、芸術の領域で名を成したいという誘惑に抗することができただろうか。
例えば、名誉、金銭、栄光のような満足感の中に我を忘れること。
あるいは、意見に我を忘れること。
集団の気分の風が一瞬でも我々に共有されるような何らかの意見を主張するために、我々が時間とエネルギーを消費する時。
あるいはまた、幸福に我を忘れること。
日常生活の楽しみに身を任せ、努力を要し、困難や痛みや絶望さえも齎しかねない省察を行わない時。
あるいは、気晴らしに我を忘れること。
絵やゲームあるいはテレビシリーズを前にして、あるいは観光旅行の楽しみの中で、人々の心は貧しさの中に傷付くのである。
もっともわたしが今言ったすべてのことは、パスカルが「気晴らし」という言葉の中に込めている。
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ここに書かれていることはわたしも考えたことがあり、5年前のエッセイでも取り上げている
「意識の第三層」、あるいはパスカルの「気晴らし」(2016.7.9)
このエッセイも好きなものの一つであると同時に、わたしにとって重要なものとなっている
コンシュさんの考えによれば、哲学者は何をするのかよりも、何をしないのかの方が重要になる
つまり、本質的なことに打ち込むために、それ以外のことを捨てなければならないという
これは言うは易く、行うは難しである
パスカルにとって本質的なものは神だったので、コンシュさんに言わせれば哲学者ではないとなるのかもしれない
この見方によると、哲学者とはそれぞれが本質的だと思うことに没頭する人と言えるだろうか
彼らにしてみれば、どうでもよいことに時間を使う暇などないということになる
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