やや癖になってきた感がある
コンシュさんの『形而上学』第1章「哲学者になる」も読むことにした
そこには彼が哲学者をどう捉えているのか、さらに進めて言えば、哲学とはどういう営みなのかについての考えが書かれていると予想されるからである
それでは早速始めたい
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人間が携わっている大抵の活動は些細なことである。
なぜなら、彼らは自分自身の状態や人間とは何かということを探求する人間としてではなく、何らかの仕事を持ち、社会で何らかの役割を演じるという活動に従事しているからである。
そのことにより、彼らはこの社会をまさに存在せしめている。
従って、もし哲学者になることが自分自身に還ることであるとすれば、それはある意味で、社会から自らを引き離し、孤独を選ぶことになるだろう。
つまり、試験の準備をする哲学教師はいるが、哲学者というものは実質的には何の役にも立たず、決まった役割も持っていないのである。
それは、哲学というものが社会的な要求には何も答えないことを意味している。
人間の問題、すなわち「もの・こと」の全体における人間の意味の問題は、政治的決定や政策の意味、あるいは歴史の意味とは何の関係もないのである。
この問題は如何なる社会においても等しく存在する。
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外形的に見ると、わたしはコンシュさんのイメージする哲学者に近づいていることが分かる
その中身はどのようなものなのだろうか
明日以降に期待したい
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