デカルトは無限の「概念」について語る。
しかし、そこで取り上げられていることは、単に一つの「概念」ではない。
人間は、自然の外にいて天使のようにその上を飛んでいるのではないことを知り、常にそう感じている。
力から見れば、すぐにでも人間を消滅させることができる根本的な依存状態にあることを人間は感じている。
パスカルに戻ってみよう。
「人間は自然の中で最も弱い葦にしか過ぎない。しかしそれは考える葦である。宇宙全体がそれを押し潰すために武装する必要はない。人間を殺すためには、蒸気や一滴の水で十分なのだ。しかし、宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は人間を殺すものより高貴だろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことや宇宙が自分に対して持っている優位性を知っているが、宇宙は何も知らないからである」(Br. 断片347)。
我々はそのことを分かっている。
それは神の問題ではなく、人間そのものよりも「高貴」ではない力の問題である。
なぜなら、自分のしていることを知らない(理由なく我々を「殺す」)盲目の存在だからである。
人間を押し潰すもの。
それは、すべての有限な存在が人間のように、それ自体は有限の存在ではない根本的な依存状態にある非人格的な力。
なぜなら、この場合、それもまた依存しており、従って無限である。
主体の哲学は、人間の実際の存在の抽象化を行う。
哲学者は、単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない。
自分が自然の一部――自然の中の考える部分――であると感じなければならない。
兎に角、実際の哲学が始まるのはここである。
しかし、それは始まりにしか過ぎない。
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今日のポイントは、自分が自然の一部を構成する考える存在であることを感じることから哲学が始まるということであった
この点に関しては、わたしの中に出来上がっていると感じている
これで第1章「哲学者になる」が終わりになった
哲学者はそこからどのように歩むのだろうか
もう少し読み進みたい気分でもある
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