マルセル・コンシュさんが2012年に出した『形而上学』(PUF)の緒言を読んでみたい
形而上学についての見方がそこにあることを期待して
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緒 言
2003年にアンドレ・コント・スポンヴィルの質問に答えながら、わたしの哲学を35に纏めたが 、それにいくつかの修正を加えてここに取り上げる。
(1)哲学は現実の全体、および全体の中にいる人間の場についての「自然の光による真理の探究」(デカルト)である。
(2)「現実」あるいは「存在」という言葉の意味は自明ではない:「存在」(einai)の意味の問題は問われなければならない(参照:モンテーニュ『エッセイ』第2巻、第12章、PUF)。
(3)我々のものである「縮められた」時間の観点から見ると(参照『自然の存在』、第6章、PUF)、存在するとは存在する本質(ousia)である(例: 一匹の蜂がある)。
(4)存在しないものの本質はない(プラトンにも拘らず)。
(5)自然のものである無限の時間の観点から見れば、人間を含めたすべての存在は儚い見かけのものに過ぎない:そこから相関しない(相関するものを持たない)(n’ayant pas l’être pour corrélat)としての見かけという範疇が出てくる(『ピュロン、あるいは出現・外観』、PUF)。
(6)哲学は幸福の探求でもなければ、真理を所有する英知(知恵)の探究でもない。なぜなら、(絶対的)真理を所有することは不可能であるからである。しかし、哲学の条件として英知(知恵)がある。なぜなら、ある種の英知(知恵)(内的平和や本質的ではないことへの無関心から成っている)がなければ、真理の探究に身を捧げることはできないからである。
(7)実在の全体を理解する試みとしての哲学は「形而上学」と言われ、その名に値するすべての哲学は何よりも形而上学的なのである(参照:デカルト『哲学原理』のフランス語版緒言)。
(8)形而上学としての哲学は科学ではなく、科学であると自称しようとする必要はない(カントの『科学として現れるであろう将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴメナ』はあるのだが)。(哲学者が全員一致するような)哲学的知はない。一つの哲学は理性だけではなく、人間のすべての可能性に訴えかける試みなのである(参照:プラトン『国家』VII、518ⅽ)。
(9)一つの哲学は一つの個性を刻んでいる。
(10)異なるやり方で理解できる実体の全体、いくつかの形而上学が可能である。その選択は証明によるのではなく(形而上学に証明はないからである)、瞑想による。(参照:デカルト『省察(第一哲学についての省察)』)。
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