2021年10月19日火曜日

コンシュ「哲学者になる」(5)
































このように、哲学者は自身の哲学的活動から気を逸らせる危険性のあるすべての活動をできるだけ手放さなければならない。

同時に、哲学と哲学でないもの(神話とか神学)とを分けなければならない。

これは、デカルト主義者やカント主義者がやらなかったし、宗教に自己を見失っていてでできなかったことである。

それがモンテーニュやスピノザとの違いである。

デカルトやカントにおいて神は存在しているので、もしわたしがこれらの著者に取り組んでいたならば、明確な良心を(わたしの哲学者としての良心を言っている)持つには至らなかっただろう。

本当のことを言えば、わたしが最初に書いたものはデカルトについての論文だったが、それは幸いにもなくなった。

わたしが若い時には、後にデカルト(必ずしも細部ではない)を拒絶することになる理由を持っていなかった。

わたしは真理を求める時に明らかにされた真理に頼ることの矛盾に気付かなかった。

モンテーニュは、彼の判断を歪める宗教的信念に委ねることなく哲学する。

それはしばしば、彼がカトリック教徒であることを忘れているようである。

彼がカトリック教徒であることは疑われたのである。

デカルトは反対に、形而上学の対象として神学の対象を定義する。

神すなわち魂なのである。

わたしとしては、神は「対象」ではないと言うだろう。

なぜなら、わたしが会うことはないからである。

それは理性や経験の外にある文化的対象に過ぎないのである。






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