今日も気持ちの良い朝となっている
午後には久し振りに投票に行ってきたが、会場が混んでいたので驚いた
さて、コンシュさんの『形而上学』の続きを見ると、第3章が「形而上学の概要」となっている
興味をそそられるので、もう少し読み進むことにしたい
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もし「自然主義」という言葉をスピノザの哲学に適用するのなら、わたしの哲学も一種の自然主義――すなわち、自然(Phusis)がすべての「もの・こと」のアルファでありオメガである現実の概念――であると言うだろう。
多くの点でスピノザとわたしは違っている。
(形而上学が証明可能であり得るとか、真理を説明する方法としてユークリッドの枠組みが適しているとか。
もし自然が無限の側面を覆い隠しているとすれば、我々知っているのは二つだけだろう。
魂と体の間には類似性がある。
「意志」という言葉は空疎な言葉である。
知恵とは「死ではなく、生について」瞑想することである。――なぜなら、二つの対立するものは不可分だからである。――
悦びだけがよいことである。
道徳は倫理と混同されている。
倫理と政治は形而上学と結び付いている、ということなどである)。
主には、これである。
わたしから見れば、それは欲求ではなく、人間の本質である自由である。
人間は自然の創造である。
我々は、自然の中における自由な存在の誕生が理解できるように、自然を捉えなければならない。
これが、わたしが大雑把に「唯物論者」ではなく「自然主義者」だと言うところのわたしの哲学の本質的な特徴である。
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