このような脱構築は、システムを解析するーーすなわちシステムをその要素に分解するーー歴史家が進めるもの(それはゲル―が見事にやったことである)とは非常に異なっている。
この違いは何から成っているのだろうか。
神学化された形而上学を解析する歴史家は、この形而上学が真であるか否かについて言明しない。
恰も真のようにやるのである。
そのため、要素は全体の中で持っているのと同じ特徴を持つ。
世界は神によって創造され、神の摂理によって支配された世界で、人間は人生の意味などを知っている神の創造物である。
反対に、わたしが神という概念を間違ったものと見做した途端、その誤りはシステムのすべての要素に拡大し、以前そうであったものに最早留まることはできず、破棄されるのである。
『形而上学を脱構築すべきなのか』
そのすべてを間違った概念に頼っている形而上学に関しては、わたしはそうすべきだと思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿