しかし、西洋の形而上学を破壊したが、だからと言ってわたしは形而上学を捨てなかった。
『哲学的オリエンテーション』の中で、わたしは新しい構築物、新しい体系のための下準備をした。
なぜなら、「そのニュアンスがどんなものであれ、すべての哲学は思考の自律的な構築として生じる」からである。
そして、モンテーニュが言うように、「破壊」(desbastiment)の後には「建設」(bastiment)がなければならない(『エッセイ』、第2巻、第12章)。
彼は神から出発する(なぜなら、cogitoは神の保証を要求するからである)。
すなわち、彼は無限から出発したが、それはわたしにも当て嵌まる。
しかし二つの理由から、デカルトの無限は「間違った無限」である。
まず、神が一人の人間であるということは、有限性を意味している。
それから、神は自分の外に世界を置き去りにする。
それは神を制限することを意味しているからである。
デカルトは言う。
有限の存在における無限の思考は、現実態(すでに完全なものとして実現した状態という意味か)の無限の存在によってしか説明できない。
まあいいでしょう。
しかしなぜ、現実の無限を特定の文明に固有の文化的対象、すなわち一神教の神と同一視するのか。
そして全く必然的ではないやり方で終了されるのである。
スピノザがやったように、神の中に無限の自然を認めるだけで十分だったのである。
それはまた、わたしがやることである。
しかし、わたしの出発点は、デカルトのような考えではなく、無限の経験、すなわちすべてのものことの絶対的基盤であり、無数の世界はその結果にしか過ぎない自然である。
従ってわたしは、自然(phusis)を無限(apeiron)と理解したアナクシマンドロス、計り知れないほどの良い兆候(omne immensum)を前に眩暈を覚えたルクレティウス、ジョルダーノ・ブルーノ、パスカル(『パンセ』、断片72)、スピノザの系列に位置している。
なぜなら、『エチカ』の第一部、定義6の中に、「『無限に無限な』無限としての自然の本質的で疑問の余地のない、殆ど神秘的な経験」(Présence de la nature, PUF, 2001, p. 95)を認めないわけにはいかないからである。
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