なぜ同じように可能な一貫性ある言説、すなわち同じように可能で、同じように論駁も可能な形而上学がいくつも存在するのか。
それは、「現実の全体」という表現の中にある「全体」と「現実」という言葉に問題があり、この言葉はどのようにでも理解できるからである。
「全体」はオーガニズムのように組織化することもできるし、砂の山のように構造をなくすることもできる。
最初の場合、ヘラクレイトスのように、全体は世界であると言うだろう。
なぜなら「世界」という言葉は構成要素が偶然集合するのではなく、組織化の法則に則って集合する全体にまで拡大するからである。
(この言葉はギリシア語ではcosmosで、「秩序」を意味している)。
第二の場合、エピクロスのように、全体は宇宙であると言うだろう。
宇宙においては、無限の空間と時間の中で、無数の世界(cosmoi)が始まりと終わりを持っており、全体的な視点を持ったり、一つのものとして考えることができない。
「現実」という概念については、机や机の上のパン、自分が飲むコーヒーは「実在する」とする一般の人(ここでは科学者も区別しない)にとって当たり前であるとしても、哲学者にとっては当たり前ではない。
哲学者は、机、パン、コーヒーが「実在する」と言うに値するかどうかを疑い、「真に」実在するもの(ontos on)すなわち永遠について自問する。
一般的に言う実在するものはすべての人にとって同じであるが、哲学的に実在するものは多様である。
たとえば、プラトンの本質、デモクリトスの原子、ヘラクレイトスの世界、スピノザの自然、モンテーニュの神、ヘーゲルの精神、エンゲルスの物質、ヘッケルのエネルギー、アナクシマンドロスの生命など。
これらの多元性から形而上学の多元性――観念論者、唯心論者、唯物論者、自然主義者、生気論者など――が生まれている。
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