ということは、我々を記憶するために後から来る人を当てにしているということなのか
ソクラテスは自分の記憶を守るために、クリトンやパイドンやユークリッドやプラトン等を頼りにするということなのか
そうではない
最初の人間の記憶はない
その後に来る人の記憶もない
後から来る人においてもその記憶はないのである
『コヘレトの言葉』はそう言う
それでもよいだろう
しかし、わたしの魂の子(生物学的な繋がりがあるかないかに関わらず)の中に、わたしが存在したという本質において再び生きるとすれば、わたしの記憶がなくなることを喜んで受け入れる
「わたしの魂の子」
哲学について、いくつかのことを除けば、わたし自身の見方を持っている職業哲学者
その結果、できる限りの満足を得るために、彼らを愛するだけで十分なのである
わたしを覚えてくれるという満足がつまらないということではなく、それはおまけで来るということである
わたしは「哲学の意味は何か」と問うた
わたしが知っていることはまず、その結果がどうであれ、真理の探究として、それ自体に意味があるということである
それはわたしの人生の意味であったし、現在もそうである
そして最後に、ソクラテスの例に倣い、哲学は死を消し去る愛をわたしに教えてくれたことである
このように、生きているが人生の最後に辿り着いた哲学者にとって、哲学の意味は哲学それ自体を超え、愛の知恵に身を委ねることである
「哲学は何に導くのか」とわたしは尋ねられる
最初の回答は「何ににも(導かない)」であり、第二の回答は「愛することへ(導く)」である
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このエッセイは、哲学を超えたところに何があるのかに興味を持って読み始めた
わたしの想像していたものは出てこなかったが、哲学が我々に与えてくれる大きな力を見せられた思いである
それが哲学の向こう側にあるものなのだろう
それは昔から聞いていたような気がする「死をアプリヴォワゼする」ことと関連したもので、それによって死を恐れなくなる力を与えてくれるのだという
そして、その源泉は隣人を愛することから生まれるという結論であった
理論や体系としての哲学ではなく、生き方としての哲学の力ということになるのだろうか
哲学に対する見方が少し変わったような気がする
そして今、哲学の向こう側に何があるのかを探る、わたしなりの旅の道行にあることを感じている
良い読みとなった
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