2022年2月20日日曜日
ハイデッガーの形而上学(13)
2022年2月19日土曜日
ハイデッガーの形而上学(12)
「このコスモスはすべてを通して常に同じで、神も人間もそれを創造したのではない。そうではなく、このピュシスは常に在ったし、現在も常に在り、これからも消えることのない炎であるだろう。尺度に合わせて燃え上がり消えたりしながら」
α)第2の意味
ピュシスは存在の1つの領域の意味ではなく、存在するものの性質(nature)を意味している
ここに来て、自然には最奥の本質の意味が出てくる
自然のものの性質ではなく、ありとあらゆる存在の性質を意味するのである
我々は、魂や芸術作品や事物の性質(nature)という言い方をする
ピュシスには所謂自然ではなく、本質、すなわちものの内的法則という意味がある
決定的なことは、2つの概念の一方が他方を抑制するというのではなく、両方が共存していることである
ここで古代哲学が2つの基本的な意味を明確にするに至った歴史的解析をすることはできない
ただ、ピュシスの2つの概念が発展するためには数世紀が必要であったことは言っておきたい
それは哲学する情熱を持った人の場合であった
我々のような野蛮人は、このようなことは一夜にして起きたと考えるのである
2022年2月18日金曜日
ハイデッガーの形而上学(11)
「人間がその力の内に持つ最高のものは(全体について)瞑想することであり、智慧(明晰さ)は隠されていないことを隠されていないものとして語り行うことである」
「明らかになってそこにある調和よりも高く、より力を持つのは、自らを明らかにしない隠された調和である」
これは、ピュシスが隠しているものが明らかになってそこにあるものではないことを教えている
これはまた、ロゴスがそれを明らかにする任務を持ってくることを意味している
2022年2月17日木曜日
アレクサンドル・コイレによる宇宙
2022年2月16日水曜日
ハイデッガーの形而上学(10)
2022年2月15日火曜日
ハイデッガーの形而上学(9)
2022年2月14日月曜日
ハイデッガーの形而上学(8)
2022年2月13日日曜日
ハイデッガーの形而上学(7)
哲学は一人の人間の特権などではなく、誰にでも関わるものである
であるとすれば、誰にでも関わるものは誰にでも理解されるものでなければならない
その意味は、何の努力もなしに、そのままで直ちに明らかなものである
哲学は究極の何かである
それは誰でもが持たなければならず、持つことができる何かである
最高のものは最も確かなものである
誰でもが最も高度で、最も厳密で、最も確実な知を知っている
哲学的なカリスマを否定することが難しいプラトンのアカデミアの入口には、幾何学、数学の知識のない者は入るべからずとあった
近代哲学の道筋をつけたデカルトは、数学的真理の特徴を持った哲学的真理を導き出す以外に何も求めなかったのではなかったか
ライプニッツは「数学者なしに我々は形而上学の基本に到達できない」と言ったとされる
これが哲学における絶対的真理と言われるものである
しかしこの試みは決して成功して来なかった
アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヘーゲルなどの思想家は、博士候補の論駁に我慢してきた
これらの歴史はあまりにも大きな打撃なので、最早認識されないようになっている
ところで、数学的知識を知識の基準、あるいは哲学的真理の理想とすることは何を意味しているのか
それは、最も中身のない、人間的要素を要求しない知識を、全体を扱う最も豊かな知である哲学の基準にするということである
例えば17歳の少年が重大な数学的発見をするということが、数学知が人間的な中身を要求していないことを示している
このようなことは哲学では起こらない
つまり、人間的要素を要求しない最も中身のない数学知をその逆の性質を持つ哲学の基準にすることがあり得ないことだったのである
2022年2月12日土曜日
ハイデッガーの形而上学(6)
2022年2月11日金曜日
ハイデッガーの形而上学(5)
2022年2月10日木曜日
ハイデッガーの形而上学(4)
2022年2月9日水曜日
ハイデッガーの形而上学(3)
2022年2月8日火曜日
ハイデッガーの形而上学(2)
2022年2月7日月曜日
ハイデッガーによる形而上学
2022年2月6日日曜日
イヴァン・イリイチの医療批判
Limits to Medicine. Medical Nemesis: The Expropriation of Health(Marion Boyars, 1976)
2022年2月5日土曜日
ジョン・グレゴリーという18世紀スコットランドの医師
John Gregory (1724–1773)
暫く寝かせてあった免疫に関するエッセイの読み直しを始めた
まだ冒頭のところで、エンジンがかかっていないようであった
今日もメモを読み返してみた
2008年7月13日のメモから
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18世紀スコットランドにジョン・グレゴリー(1724–1773)という医師がいた
啓蒙主義(進歩、改良)を信奉し、医学の実践について倫理面から分析を行い、当時市場原理に基づく考え方で行われていた医療の改良に努めたようだ
その指導原理となるのは2つの哲学
フランシス・ベーコン(1561-1626)流の科学的な視点とデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)の道徳、特に共感を医療の現場に持ち込むことであった
ベーコン流の科学とは、観察、経験、実験に基づくもので、現代科学の基礎となっているもの
ヒュームによる共感とは、人が苦しんでいることを察すると、その観念と共に相手の苦痛と同じものを感じるようになるもの
この共感は女性的なものと捉えていたようだが、現在のケア理論の先駆けになっているようだ
ヒュームとはアバディーン哲学協会で実際に会っていたらしい
エジンバラ大学での講義に基づいていろいろな著作を発表している
● Observations on the Duties and Offices of a Physician and on the Method of Prosecuting Enquiries in Philosophy(1770)
● Lectures on the Duties and Qualifications of a Physician「医師の義務と視覚に関する講義」(1772)
これらは医療倫理について英語で書かれた最初のものとされている
2022年2月4日金曜日
治療に重要となる精神と全体の知
2022年2月3日木曜日
『絶対』に生きる
このところ当たっていた「医学のあゆみ」エッセイシリーズの纏めの校正が終わった
ファイナルバージョンとしてもよいと思われるものだが、何かが終わったという感覚が全くない
まだ異常な集中が維持されているようだ
ところでメモの解読だが、昨日と同じ2008年7月6日に「『絶対』に生きる」というのがあり、驚いた
何年か前から「絶対的真理」などということを言い出しているが、実はフランスに渡った当初からどこかにあったアイディアであることが判明
そこには、こんな言葉が並んでいた
これは、絶対的なものと共に生きること、あるいは全体的なるものを目指して生きることを意味している。この世にある相対的な価値には囚われず、自らが掲げる絶対的なものに向かって生きることである。これができれば、素晴らしいだろう。その状態になれば、顔に表れてくるのではないだろうか。その道を進むエネルギー源になるのは、20代から言っている「内なるモーター」である。このモーターの状態は20代と変わっていない。その時のわたしと共に歩むのである。
この段階では、絶対的なるもののイメージはまだできていなかったように見える
どこか分からないが、そこに向かおうとする無謀な気負いだけは表れている
そのイメージは当時よりは明確になってきているような気がしている
2022年2月2日水曜日
リヒャルト・ゼーモンの「ムネーメ」
2022年2月1日火曜日
新しいテーマが顔を出すのか
新しい月が始まった
春の気配が感じられるかと思ったらまた逆戻りという感じだが、着実に冬は終わりつつある
今日も「医学のあゆみ」エッセイシリーズに関する読み込みをしていた
さらに検討すべきところが出てきたので、もう少しかかりそうである
ところで今朝のこと
文献に目を通していたところ、最近頭に浮かんだこととの繋がりが見えてきて、かなり大きなテーマになりそうな気配を感じた
手応えはありそうだが、少し待ってくれ!という感じである
いつものように様子を見ることにしたい