2022年6月8日水曜日

悠々自適同士の会食





昨夜は北大の病理学教室を昨年退職された笠原先生との会食があった

こういうことは今までなかったかと思うが、知らないうちに日程が決まっていた

お話を伺うと、最後は副学長という要職にあったが、なかなか大変な状況の中で仕事に当たられていたようである

先日も似たような話を聞いたばかりだったので、最近の大学はなかなか大変だというのが率直な感想であった

教養高くあるべき人たちにも深刻な変化が起こっているようである

それは時代の反映と言えるものなのだろうか

わたしの場合、早くに天空に上ってしまったので、なかなか理解できないところではあるのだが、 

いずれにせよ、現在は晴耕雨読、悠々自適の日常とのことで、ご同慶の至りである


振り返れば、アメリカでの学会参加の折ではなかったかと思うが、笠原先生がマイアミ大学に移られた頃に(もう30年程前になるか)訪問したことがある

セミナーを終えた後、マイアミから車でキーウェストまで、海の上を行くようにセブンマイル・ブリッジを通って案内していただいたことが忘れられない

その後、コマーシャルで同じ風景を見た記憶がある

キーウェストでヘミングウェイの家やアメリカ最南端のポイントからキューバを望んだことも懐かしく思い出した

また機会を見てお話を伺いたいものである











2022年6月7日火曜日

目に見えないものを見るトレーニング





午前中、本屋に顔を出す

予期せぬ出会いを期待して

今日は木田元編『一日一文』が目に付いた

この手の本を読まなくなって久しい

自分が原典に当たる過程でその文章に出会うのでなければ、インパクトが薄いからだ

間に一人入っているため、自分が発見したという感覚が生まれず、中に入ってこないからだろう

ただ今日読んだところ、引用されている人と言葉が自分の中にあるものと重なり、いい感じを持った

編者が哲学者であるために、選ぶ対象(嗜好)に共通点があるのかもしれない

纏まった時間を取れない時、ちょっとした移動の時などの思索の種として使えそうである


カフェで1時間ほど読んでから、植物園に向かった

1時間以上の滞在はお断りとのことだったため

それから2時間ほど、緑の中をゆっくり散策

以前であれば少しは盛り上がったのだろうが、今日は駄目であった


帰りに、こんな考えが巡っていた

見尽くしたとはとても言えないのだが、ここに来て目に見えるものに対する感受性が落ちているのではないか

そして、これからは目に見えないものにしか感じなくなるのではないか

もしそうであれば、無理に目新しいもの、珍しいものを探す必要がなくなる

マルクス・アウレリウスではないが、自分の内に向かうしかないのかもしれない

そう言えば、この言葉も『一日一文』にあった

そして結果論だが、これまでの10年ほどを、目に見えないものを見るトレーニングをしていたようにも見えてくる

もしそうだとしたら、何という適切で幸運な歩みだったのだろうか

これからの退屈になりがちな生活が、発見に満ちたものになる可能性があるからだ










2022年6月6日月曜日

『スピノザとの会話』を読み始める

































今朝、手持ち無沙汰にしている時、この本が目に入った

マケドニアの作家ゴーチェ・スミレフスキーによる Conversation with Spinoza という小説

マケドニア語からの英訳本で、2006年に刊行されている

なぜか刊行された年に手に入れている

最初のブログを見ると、2005年にはこの哲学者に興味を持っていたことが分かった

当時の値段は2,000円弱だったが、今では18万を超えている

因みにアメリカのアマゾンでは$584、フランスでは842€となっていて、驚きである

このように長い間手元にはあったのだが、なかなか手に取ることにはならなかった

少し心に余裕ができてきたのだろう、読んでみる気になった


読み始めると、オランダの描写が出て来て、10年前の心地よい旅の記憶が蘇ってきた

パリ心景』でも取り上げた「スピノザへの旅」とも絡んできそうである

レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」についての説明があると、実際に見た時の記憶が刺激されるということも起こっている

スピノザとオランダを呼び起こすノスタルジックな旅になりそうな予感がしている

もう少し読み進もうかという気分になってきた



ところで、おそらく日本では無名だと思われる作者のビデオが見つかった

年配の作家ではないかと想像していたが、まだお若い

以下に貼り付けておきたい














2022年6月5日日曜日

人生に気を許さない



























先日、何気なく浮かんできた言葉が今日のタイトルとなった

人生を今、実際に歩んでいるという感覚を持ちながら生きること

それを旅に出ていることと同義に解釈すれば、常に注意していなければならないことになる

生きることが長くなると、どうしても慣れが生じる

それを許さないことと解釈してもよいだろう

それは「日々新た」を維持する秘訣にもなるだろう

最後まで気を許さないように行(生)きたいものである

そんな考えが浮かんできた週末の朝である







2022年6月3日金曜日

静かに広がることを


























今日も追加しておきたい

大学教員をされている方から、学生にも耳を傾けてほしいことが『パリ心景』にはありそうなので、大学図書館に推薦しておきます、というメッセージが届いた

若い方の目に触れる機会が増えるとすれば、嬉しい限りである

このような流れが広まるとすれば、わたしが重要だと考えている「普及」にも貢献することになる

出版社の方でも図書館関係に働きかけるようである

良い結果に繋がることを願いたい



それから、やはり『パリ心景』を注文されたという学生オケの後輩から新しいトランペット奏者を紹介された


一時期、女性トランぺッターが何人か出てきたことがあったが、今回はベネズエラ出身の男性トランぺッター

以下にハイドンの協奏曲を張り付けておきたい














2022年6月2日木曜日

『免疫学者のパリ心景』の読まれ方























昨日、『免疫学者のパリ心景』の案内を出した後にいろいろな反応が戻ってきた

まず多かったのが、表紙が美しいということ

昨日も触れたが、コメントを読みながら、わたしの頭になかったような解釈が可能であるということを感じていた

自分の中での一義的なテーマは哲学と科学の関係だと考えていたが、実はいろいろな角度から読まれる可能性を秘めていることに気付いたのである

例えば、「希望の書」に込めた意味は、この世界の、そして人類の希望になるという壮大だが漠然としたものだった

しかし、昨日のコメントを読み、それは個人レベルでのより具体的な希望にもなり得ることを知った

それは同時に、退職後の生き方という視点を含むものであった

「医学のあゆみ」のエッセイシリーズでも取り上げた「人生の時間割」に関連するものである
医学のあゆみ (2014.6.14) 249 (11): 1211-1215, 2014

あるいは、海外での長期生活をどのように「使った」のかに興味を示す方もいる

また、フランスに関係する仕事をされてきた方は、何も知らなかった科学者が一体どのようなフランス遍歴をしたのかに興味が湧くという

フランス物を読むようになり、フランス人について不思議な感じを抱くようになったという方は、その謎を解くヒントはないかという視点から読みたいという

勿論、科学と哲学の視点からいろいろな考えを持たれる方もいることだろう

ということで、本書は多面体の構造を持っている可能性がありそうだ


今日は昨日のフォローアップをすることになった















2022年6月1日水曜日

今日から解禁なのか、あるいは言葉の持つ力

























ちらっとしか見ていないので分からないが、今日から日仏の往復の制限がなくなったのだろうか

こんなに一瞬で変わるとは思ってもいなかった

驚きである

こちらはそもそも不要不急なので、細かい制限を調べるところまでは行っていないのだが、、

ただ、そういう可能性がそこにあるというだけで、全く違う精神状態になるから不思議だ

どこかに開かれた窓という意味では「希望」に繋がるのかもしれない



ところで今朝、新著『免疫学者のパリ心景』の案内に「希望の書」という形容を付けて送った

返信の中に「希望の書」という言葉を見て、一気に読みたい気分になったという言葉があった

こんな小さな言葉が行動を促すことがあるのだ

そう言えば、先月は帯の一文を見てシェリングを読むことにしたのだった

帯と言えば、『パリ心景』の帯にある「知のエピキュリアン」という言葉に反応した方もいた

『パリ心景』が言葉の持つ力に溢れる本であることを願うばかりである



「希望の書」について、ツイッターの方に以下のようなコメントが届いた
「まさに希望の書ですね。定年退職してから、海外留学して、科学を根元的に考えるなんて、憧れであり、挑戦であり、希望そのものだと思います」

「希望」にこのような意味を見出す方がいることは、発見であった

『パリ心景』はいろいろな読み方ができる本になりそうだという予感がしている








2022年5月31日火曜日

5月を振り返って

























今月もあっという間に纏めの時期になった

とは言うものの、実感ではかなりの長さである

今月は次のようなことがあった


1)エッセイ集『免疫学者のパリ心景』(医歯薬出版)の書影が届いた

このデザインは原条令子さんによるものとのこと

カバーにはフランスの香りが漂い、本体の表紙には静けさがどこまでも広がっている

そのイメージはわたしが想像していたところを超えるもので、別の世界に運んで行ってくれる

読者にも広がりが出ることを期待したい


先日、本書にも出てくるフランスの友人に書影を送ったところ、素晴らしい表紙でコクトーを想起させるとの返事が届いた

これは原条さんの意図でもあったと伝え聞いていたので、なるほどと納得

紙の手触りなども含め、実物を早く味わってみたいものである

既に紹介したように話題は多岐に亘っているが(目次はこちら)、全体として大きな纏まりを作っており、「希望の書」になることを願っている

是非お読みいただき、何かを感じ取っていただけるとすれば幸いである



2)免疫に関するエッセイが出版されることになった

このエッセイは科学から哲学に至るわたしの歩みの全過程に関わるもので、長い瞑想の後にゆっくりとエネルギーを込めて書かれたものである

同時にこれは上記『パリ心景』と響き合っており、そこでも紹介した「科学の形而上学化」の最初の本格的試みとなっている

それだけに発表の場を与えられたことは幸いであった

みすず書房さんには改めて感謝したい

刊行予定日などの詳細は決まっていないが、これから折に触れて紹介していく予定である

パリ心景』とあわせて、よろしくお願いしたい



3)月初めからシェリングの『学問論』を読み始めた

事の始まりは、偶然目に入ってきた「国家は哲学に対しては無制限の自由のみを与える義務がある」という帯の言葉であった

これまでシェリングが意識に上ることはなかったが、わたしの中にあるものと近い主張が展開されていることを発見

また、これまでできるだけ使わないようにしてきた「絶対的」という言葉に対するハードルを一気に下げてくれる効果があった


その中で、わたしにとって極めて重要な発見をした

シェリングは「絶対知」を、実在的なものと観念的なものが不可分な状態にある統一性と考えている

つまり、実在的なものが単独であっても不完全だが、そこに観念的なものが融合することにより完全な知になるというのである

ここで、実在的なものを科学が生み出し、観念的なものを哲学が生み出すと考えれば、シェリングの言う「絶対知」に至る過程は、わたしが言うところの「科学の形而上学化」――科学的発見を哲学的に見直す試み――とほぼ完全に重なるのである

想像もしていなかったことだが、わたしの試みは「絶対知」(シェリングの)を目指す歩みだったのである

勿論、これがシェリング哲学の正しい解釈だとすればではあるのだが、


『学問論』に関しては、次第に議論がイメージできなくなってきたので、少しお休みにすることにした

本棚を調べたところ、『人間的自由の本質』、『ブルーノ』、Bruno などのシェリング本が見つかった

いずれも最後まで読んだ形跡がない

『学問論』を読んだ後には『自由の本質』にもすんなり入っていけそうだし、ブルーノに関しては「医学のあゆみ」のエッセイでも取り上げている
医学のあゆみ 245 (6): 541-545, 2013

これから少し付き合ってみてもよいのではないか

そんな気にさせてくれる想定外の出会いとなった










2022年5月30日月曜日

瞑想の一日に

























素晴らしい快晴だ

今日は外に出て瞑想の一日とすることにした

「仕事」のようなものが一段落したことも、それを可能にしたようだ

このような自由な時間と思索の空間が最も好きなものである

これからに向けて考えているいくつかの構想の中身について瞑想することにしたい

どんなものが出てくるのか、興味津々である



そう言えば今朝、車を運転している時、テントウムシがフロントガラスに張り付いて最後まで離れなかった

こんなことはこれまでに経験したことがない

そこで、先日テントウムシを外に逃がしてやったことを思い出した

まさか同じ虫ではないだろう

同類が何かを伝えに来たのだろうか・・・

もしそうだとしたら、そのメッセージは確かに受け取った、と言いたい


楽しい空想の時間となった









2022年5月29日日曜日

年内に可能か





最近届いた案内によると、日仏の移動制限が以前よりかなり緩やかになっているようだ

日本1年目を終えたあたりから全くチェックしなくなっていたので、少し明るい光が見えたように感じた

ただ、検査、隔離(期間は短くなってきた)はなくなっていないので、もう少しというところだろうか

これから折に触れてチェックを入れることにしたい

ひょっとすると年内に、ということも期待しながら









2022年5月28日土曜日

シェリング『学問論』第8講を読む(つづき)

























「歴史の三つの時代」について

歴史には、自然、運命、摂理の三つの時代を想定しなければならない

これらは同じ同一性を別のやり方で表現している

自然は無限と有限が抗争に至らず、有限なるものの萌芽の内に閉じ込められている

ギリシアの宗教と詩の開花期がそうであった

人間が自然から断絶するようになると、古代世界が終わる

運命は実在的なものにおいて認識された摂理であり、摂理は観念的なものにおいて直観された運命である

キリスト教は歴史の内に摂理の時期を導き入れる

キリスト教における宇宙の直観は、宇宙を歴史として、摂理の世界として見る直観である

これがキリスト教が歴史と不可分であり、一でなければならない理由である


歴史と哲学との対立は、歴史を一連の偶然な出来事として、あるいは単なる経験的必然性として理解する時に起こる

歴史も自然や何らかの知の対象と同様に永遠なる統一から由来し、その根を絶対者の内に持っている

通俗悟性は、出来事や行為の偶然性を個人の偶然性によると見做す

しかし、その行為を行った者は一人しかいないだろう

あらゆる行為において、一段低いところから見た時にのみ、自由が存在する

つまり、個人は絶対的必然性の道具なのである

歴史におけるキリスト教の形成、民族移動、十字軍などの偉大な事件は経験的原因によるとされるが、すぐれた感性の持ち主ならば信じないであろう

たとえ経験的原因によるとして、それは永遠なる秩序の道具に過ぎないのである



「キリスト教の歴史的構成」について

歴史一般においてそうであるように、宗教の歴史も永遠の必然性に基づいている

キリスト教の歴史的構成は、次の地点から出発する

すなわち、宇宙はそれが歴史である限り、必然的に二つの側面に分かれるという見解である

古代世界では、支配している理念が有限なるものにおける無限なるものの存在で、歴史の自然的側面である

古代が終わるのは、真に無限なものが有限なものの中へ来た時であるが、それは有限なものを神化するためではなかった

そうではなく、有限なものを固有な人格において神に捧げ、神と和解するためであった

つまり、人となった神、古代の神々の世界の頂点であり終焉であったキリストが、キリスト教の第一の理念となったのである

キリストが身に付けるのは高みにある人間性ではなく、卑賎の内にある人間性である


種族の内に詩として生きているギリシアの宗教は、歴史的基礎を必要としない

それに対してキリスト教では、神的なものが永続的姿では生きておらず、儚く過ぎて行く

そのため永遠にするためには伝承が必要で、秘儀のほか、公教的な神話が存在する

(以下、略)










2022年5月27日金曜日

シェリング『学問論』第8講を読む

























本日は、シェリング『学問論』の第8講「キリスト教の歴史的構成について」を読みたい

以下のような構成となっている
「考察の目的」
「キリスト教の根本性格」
「歴史の三つの時代」
「キリスト教の歴史的構成」

本講の「考察の目的」について

実在的学問は、観念的、絶対的学問と歴史的要素によってのみ区別される

神学はこの歴史との関係の他に、思弁的理念の内にある

つまり、神学は哲学的知と歴史的知との最高の総合であり、これを表現するのが本講の目的である

最近の理念を欠いた試みの中に人類史がある

そこでは、最初の状態が未開民族の野蛮なイメージになっている

シェリングは、文化の状態は人類の最初の状態と考えているようだ

それは、国家、学問、宗教、芸術の始めは同時であるか、それらは一つであり、完全に浸透し合っていたということである

これを読んだ時、なぜか意識は生物の誕生と同じであるという考えを思い出した



「キリスト教の根本性格」について

神学の歴史的関係は、歴史的にのみ認識されるということだけに基づくのではない

キリスト教における絶対的関係とは、宇宙が歴史として道徳の王国として見られるということである

この普遍的な見方がキリスト教の根本性格を形成している

古代ギリシアの宗教では、無限なるものは有限なるものにおいてのみ直観される

これに対してキリスト教は、無限なるものへ直接的に向かうという違いがある

それ自身無限なるものであり、いかなる方向にも完結、限定されない世界である

そこでは、種々の姿は永続する自然存在者ではなく、歴史的形姿である

ギリシアの宗教では無限なるものは多ともなり得るので多神教が可能であるが、キリスト教では無限なるものは一のままで多神教とはなり得ない

ギリシアの宗教が同時として持つものを、キリスト教は継起として持っており、歴史的なのである

自然と歴史は、実在的統一と観念的統一、ギリシア世界の宗教とキリスト教の世界と関連している

キリスト教では、神的なものは自然の中に顕示するのではなく、歴史においてのみ認識できる

異教においては、自然は顕わなもので、観念的世界は神秘として退いた

逆にキリスト教では、観念的世界が露わとなり、自然は神秘として退かねばならなかった

ギリシア人にとっての自然は、それ自身において神的であった

神々は自然を超えたものではなかったのである



◉ 後半は明日以降にしたい










2022年5月26日木曜日

シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(4)

























昨日、ネットサーフをしている時、学生時代の同期生が近くで働いていることを発見

何ということか、ということで早速仕事場を訪ねることにした

半世紀振りの再会である

流石にこの間大きく変わっていたようで、マスクのせいもあったかもしれないが、全く認識されなかった

それもそのはず、学生時代はもっと痩せており、体重差を数字で表せば30キロになる

こちらは面影を見つけて違和感はなかったのだが、相手は最後まで誰と話しているのか分からなかった可能性がある

そう言えば、同期生の2人がツアーで一緒になったのだが全く気付かず、最後に恐る恐る確かめ合ったというエピソードを話していた

人間は日々別人になると思った方がよいだろう

いずれにせよ、過去の中に入ると気持ちが涼やかになる

よいランコントルとなった

戻ってみると、途中で体に付いたのだろう、テントウムシが机の上に落ちてきた

これまでであればぞんざいに扱ったのだろうが、寸でのところで思い止まり、優しく包んでから外に逃がしてやった

本当に微かな気持ちの動きが気分を和やかにしてくれる



それでは、シェリングを始めたい

今日は、第7講「哲学にとって外的ないくつかの対立、とくに事実的な学問との対立について」のリキャップになる


まず、道徳との対立である

知と行為を対立させるのは、本来、理論哲学は存在せず、あるのは実践哲学だとする間違った啓蒙主義に由来する

道徳は限定的なものを超え普遍へと高まるもので、その点では哲学と同じである

両者は本質的、内的に同等である

思弁的、理論的なものから離れて、実践的なものに急ぐとすれば、道徳も知も浅薄さが表れる

思考することは、それ自体が行動なのだと言ったハイデッガーを想起させる


第二に、宗教との対立がある

無限なものの純粋直観としての宗教と純粋直観の同一性から出ていく哲学との対立である

しかし、哲学は絶対性(無限なもの)の中にあり、その外(有限なもの)には移行しない

最高の学問である哲学においては、すべてのもの(自然と神、学問と芸術、宗教と詩など)が一つに根源的に結び付けられている


第三は、その他の学問との関係について

哲学は根源知を求めるが、それは観念のレベルであって実在的にではない

しかし、絶対的なものの全体を実在的に捉えることができるとすれば、その知性は一切を現実的に一として捉え、有限であることを止めるだろう

根源知の実在的な表現は、哲学以外のすべての知である

そこには区分があり、歴史的側面を持つ


第四は、哲学の内的組織について

純粋な絶対性は必然的に純粋な同一性で、それは永遠に主観であり客観であることである

主観と客観には絶対性はないが、両者に等しい本質があるものが絶対性である


第五は、事実的学問の区分について

学問が国家に関連して客観性を得ているものは、事実的学問と呼ばれる

客観性への移行は、個別の学問として分離する

その外的図式は、以下の哲学の内的規範に依拠する学問に基づいている

一つは、絶対的無差別点実在的世界と観念的世界が一つになる)を示す神学

二つは、実在的な面を外に示す自然学、それが有機体であれば医学になる

三つは、哲学の観念的な面を分離して客観化する歴史学であり、その中で最も優れたものが法制度の形成だとすれば、法学になる


第六に、学部相互の関係に触れている

国家によって客観的存在にされた諸学を結び付けるものが学部である

上級学部(神学、法学、医学)の中で神学が最高で、観念的なものが実在的なものよりポテンツが高いとすれば、法学、医学の順になるだろう

哲学に関しては、一切であるがゆえに個別のものではないのだから、哲学部など存在しようがない

哲学を総体として客観的にするのは芸術だけである

芸術や哲学が国家によって特権を与えられたり制限されることもあり得ない

それがあり得るのは上級学部だけである

国家は哲学に対して無制限の自由の身を与える義務がある

そうしなければ、哲学を完全に否定してしまうことになる

現在の哲学部の構成員は、かつてアルティスト(芸術・学芸に携わる人)と呼ばれていた

国家の義務を負っている教師を作るのではなく、自由学芸に携わる人を育成するのが哲学部である

ただ、本来ならば最も普遍的な尊敬を受けるべき哲学部が世間の笑いものになってしまったとシェリングは見ていた








2022年5月25日水曜日

シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(3)

























今日はプチ・ニュースから始めたい

わたしが専門としていた免疫に関するエッセイが、みすず書房から刊行されることになった

このエッセイは長い時間をかけた瞑想の後に書かれたもので、来月刊の『免疫学者のパリ心景』と響き合うところがある

また、『パリ心景』で詳しく紹介した「科学の形而上学化」の最初の本格的試みと言えるものでもある

こうしたタイミングで2つの書が世に出ることになったのには、何かしらの因縁でもあるのだろうか

詳細は未定だが、こちらも折に触れて紹介していくことにしたい


さて、シェリングである

こうして読んでみると、わたしの場合、やはりフランス、ドイツの大陸哲学に親和性があるように見える

そのためだろうが、これまでのところ違和感なく読み進むことができている

今日は第5・6講を振り返ってみたい


第5講「哲学の研究に対して通常なされる非難について」

哲学が国家にとって有害であるという非難があるが、それは2つの方向性から生まれている

第1は、粗雑で無教養な悟性、空虚な理屈をこねる教養に至った悟性で、通俗的な知が絶対的な知を判定する立場になる場合である

このような通俗的悟性を祭り上げてしまうと、学問の世界以外のところにも衆愚政治や粗野な人間の台頭を許すことになる

第二の方向性は、有用なものだけを目指すもので、それが国家にも及ぶことになる

考えて見ればわかることだが、有用なものほど不安定なものはない

なぜなら、今日有用なものは明日そうではなくなることがあるからだ

功利主義が広まると、全ての偉大なものや活力は窒息させられることになる

この潮流を止めることができるのは、哲学である


学者の中にも哲学は危険であると批判する人がいるが、哲学と対立する学問はそもそも学問ではないだろう

哲学は各分野において散らばっている事実から、もっと深く、もっと根拠付けられ、もっと密接に連関し合ったものを求めるようになる

そしてそれは、その分野にとっても有益である

哲学は包括的なもの、普遍的なものに向かおうとするのだが、そのためには豊かな古典の教養が求められる


こういう記述を読むと、新たに出ることになった免疫に関するエッセイも哲学のこの精神に裏打ちされていることを感じる

結果は判断できないが、少なくとも動機においてはシェリングの言う哲学の本質に近いものがあったことが分かる


哲学は流行に属するものだという非難があるが、哲学の本質は古代ギリシアから変わっていない

ただ、哲学の形に変化が見られるのは、哲学がまだ究極の形態を獲得していない証左ではないかと言っている



第6講「とくに哲学の研究について」

よく出される問いに、哲学は学べるのかというのがあるが、答えはそのものとして学ぶことはできない

哲学の形式や哲学史に関する知識は学べるかもしれないが、絶対者を捉える能力は別物である

ただ、訓練できる技術として、弁証法がある


哲学の根源的意図は、あらゆるものを一つのものとして記述すること、事実を超えて絶対的であるようなものへと出ていくことである

絶対に至る哲学は、普遍と特殊、理念的なものと実在的なものを一つに形成する永遠の試みである

哲学の創造的・産出的能力は、自らを形成し、高め、無限なものにまで高めていく


これは私見だが、有用性を言うとすれば、これほど有用なものはないのではないだろうか

ここで発見に至ったことは、有用性にも特殊あるいは実在的な世界でのものと、普遍あるいは理念的な世界におけるものがあり、世に言われる有用性は前者で、わたしが哲学に認める有用性は後者ということになる

哲学に入ってから感得し続けていることは、後者の意味における哲学の力である

それは、生きることを直接的に支える力のことである

「これほど有用だ」という意味はそういうことである

前者に哲学を応用しようとするところでは、哲学の持つ根源的な力が完全に破壊されるのである


心理学が哲学に取って代わるということはあり得ない

なぜなら、真の学問は魂と身体を絶対的な統一の中だけに求めるが、心理学は両者が対立すると考えるからである

従って、全てのものを因果関係の下に置き、絶対的、本質的なものを認めない

事実を重視する経験的で分析的な哲学は、絶対知に至ることができないのである


古代では有限なものと無限なものが一緒だったが、近代世界は二元論の世界になった

主観的なものと客観的なものが引き裂かれ、対立することになったのである

近代世界における哲学の使命は、この対立を破壊し、全てを包括する高次の統一を表現すること、絶対的認識を追究することである


高らかに謳うシェリングの言葉には、終わりなきその道を歩んでいきたいと思わせてくれるものがある









2022年5月24日火曜日

シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(2)


























今日も発見があることを願いながら、リキャップを始めたい


第3講「大学における研究の最初の前提について」

本講では、学問を職業とする者の一般的要件について語る

研究には、歴史的側面芸術的側面がある

前者は必要になるものを只管学習することが求められる

後者は形式の側面があり、訓練を通してのみ我がものとすることができる

「自分自身で創造するためにのみ学ぶ」のである


認識には根拠の認識を担う理性的認識と、単なる事実を学ぶ歴史的認識がある

「口過ぎの学問」は生活に役立つためのもので、根拠は完全に無視される

この場合、普遍の中で特殊を捉えられていないので真に体得できず、進歩するということがない

真の進歩は絶対的原理から評価しなければならないからである


大学以前においては、機械的に知識を習得する以外にない

真の意味で絶対性には至らない年齢の人に絶対性による知を与えるのは賢明ではない

それぞれの学習段階に留まることが重要なのである


語学学習はその後のあらゆる学問形成にとって必要不可欠である

若年期に古代言語を学習することは、機知や洞察力や着想力を訓練するために欠かせない

近代教育学は暗記教育に反対するという立場から古代言語の学習に異議を唱えている

しかし、偉大な人物は記憶の容量と活力なしには在り得ない

そのような人物ではなく、勤勉で有用な市民的人間の養成を近代教育学は目指していたのである


言語知識は、生き生きとした直観の中で芸術や学問の歴史を描写する文献学の手段に留まる

文献学者は哲学者や芸術家とともに最高位を占め、大学では文献学のみを教えるべきなのである



第4講「純粋な理性学である数学と哲学一般の研究について」

根源知は全ての学問の源であると同時に帰着する終極であり、そこから諸分野に命を吹き込まなければならない

普遍知に対する特殊知は、絶対的認識でも無制約に真なる認識でもない

知はそもそも限定された知なので、依存的で常に変化し、多様で異なっている

ただ、知の本質はすべてのもので同一なので限定されることはない

特殊知に対する普遍知は、特殊知から抽象されたものである

真に絶対的な認識の究極の根拠と可能性は、普遍特殊が一になっていなければならない

これが絶対者の理念である


根源知の他に依拠するものを持たない学問が、哲学である

哲学と数学は、普遍と特殊が絶対的同一性に基づいている

ただ、数学は反省的直観を用いるが、哲学が行う直観は理性直観(知的直観)で、根源知と同じである

哲学は事物の永遠の原像についての学問であり、知的直観なしに哲学はあり得ない

哲学的直観を持つためには、一切の有限な認識が空虚であることを洞察していることが条件となる

これは、日常世界(地上生活)における有限なるものの認識を離れる必要があるということなのか

もしそうだとすれば、これまでの天空での生活は哲学的直観を持つための最良のトレーニングだったとことになる


哲学の効用について語ることは、哲学の品位を汚すものである

哲学は有用性とは関係なく、それ自身のためだけに存在する

これが崩されると、哲学の本質も崩壊することになる

この点にも深く同意せざるを得ない






2022年5月23日月曜日

シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(1)

























久し振りにシェリングに戻ってきた

ブレイクが入ったので、先に進む前にこれまでのところを振り返っておきたい

まず一番印象に残ったことは、これまで遠慮しがちに使っていた「絶対的」という言葉が至るところに散らばっていたことである

それは、わたしが遥か彼方にあると想像していた「絶対的なるもの」が急に身近に感じられる効果を齎してくれた

ここで各講義のリキャップをしておきたい


第1講「学問の絶対的概念について」

専門と普遍的なもの、絶対的なものとの関係が論じられている

結論から言うと、普遍的なもの、絶対的なものの認識のない専門には意味がなく、その認識に至るには哲学が不可欠である、となるだろう

それから「根源知」なるものが出てくるが、これは何の制約も受けない知であり、観念的であると同時に実在的でもあるという統一性を持つ絶対知である

すなわち、絶対知には観念的なものと実在的なものが不可分の状態になければならない


これはどういうことだろうか

観念的なものを哲学が生み出すものとし、実在的なものを科学が生み出すものと仮定し、それが不可分の状態になければならないと言うのだとすれば、わたしが言うところの「科学の形而上学化」の意図と極めて近いように見える

もしそうだとすれば、わたしの日常は「絶対知」を求めての歩みということになるのだが、、

急に力が出てくる推論になるが、それでよいのだろうか


ところで時間の中、有限性の中では、観念的なものと実在的なものは対立する

よく言われる「知と行為」の対立は、こうした中から生まれる

知を行為の手段と考えてはいけないのである

絶対知はそのものだけのためにあるということになる


第2講「大学の学問的および道徳的使命について」

大学の研究は、他に依存しない自立した最高の理念である「根源知」によらなければならない

真なるものは永遠であるが、個人のレベルでは有限なので、学問は伝承されなければならない

それは道徳についても同様である

しかし、現在の大学では、知が孤立した特殊に陥り、普遍的な精神が失われている

これらを鑑みる時、大学に要求すべきは普遍的なもの、絶対知の精神を呼び覚ませということである

役に立つもの、有用性のあるものが推奨され、大学が国家の道具となれば、学問は死滅する

大学は本来、学問の生命の源泉である普遍的なものを求めなければならない

そして、才能と教養だけが判断基準とならなければならない

理性的思惟への教養は理性的行為への唯一の教養だという

そして自分の専門領域から絶対的な知へ到達したとすれば、明晰と思慮の世界に至る

絶え間ない自己形成である学問は、自己との同一性へ、真に浄福な生へと導く直観へ向かうという

この状態は意識の第三層レベルにおける幸福を指しているのではないだろうか

パリ心景』でも論じているように、学問(真理に至ること)は幸福の問題と深い繋がりを持っている

シェリングの中にもその証左が見つかったことになる










2022年5月21日土曜日

『免疫学者のパリ心景』のコラムのご紹介

































変な言い方だが、本書には「おまけ」が付いている

編集者の提案で、各章に短い文章を付けて「コラム」とすることになった

その章の内容にどこかで関係するテーマを取り上げて、ほんの少し肉付けするというものである

それがうまく行っているのかどうかのご判断はお任せしたい

以下にタイトルだけ挙げておきたい

COLUMN 1.古典を読むという「実験」が欠かせないわけ
COLUMN 2.二つの闇の間の閃光
COLUMN 3.免疫の本質に至る旅
COLUMN 4.「科学と哲学」を考えるカフェとフォーラム
COLUMN 5.エッセイシリーズから見えてきた好みの哲学者

10年間続いたエッセイシリーズでは、写真を数枚入れることが条件であった

本書においても写真を厳選して入れたが、歴史上の人物を除き著者撮影のものである

フランスの雰囲気が伝わってくることを願っている


それから、これも編集者からの提案だったのだが、本と章のタイトルにフランス語を添えることになった

上の写真にある通り、表紙からフランス語が大きく出ている

わたし自身、まだその全貌を見ていないのだが、『パリ心景』に相応しいフランスの香りが漂っていることを期待している


こうしてみると、科学と哲学から出発しているが、あるいはそれ故に当然の帰結なのかもしれないが、この世界、この人生と深く関わる大きな全体についての書になっているように思えてきた

それが「希望の書」であることを願いたい







2022年5月20日金曜日

『免疫学者のパリ心景』第5章のご紹介


































今日は最終章になる第5章を紹介したい

タイトルは「『現代の超克』のためのメモランダム 」とした

以下のような構成となっている

1.シュペングラーが考えた技術、文化、文明
2.ハイデッガーによる「テクネ」から現代を考える
3.プラトンが問いかけた「知る」ということ
4.徳認識論と「科学の形而上学化」
5.「わたしの真理」から「絶対的真理」への道を想像する
6.真理の探究と幸福、そしてこの生の意味

これらは、将来に向けてわたしが重要だと考えるようになった問題や視点を取り上げたものである

最初から「現代の問題に迫る」ということで始めたのではないが、振り返ってみれば、その問題について迫ったものがあったということになる

ここで問題にされている点は、わたしを超えた多くの個人、さらには社会にとっても避けて通れないものになると想像している

その意味ではやはり、「『現代の超克』のためのメモランダム」という形容は適切であったと言えるだろう

お読みいただき、フィードバックしていただければ幸いである









2022年5月19日木曜日

『免疫学者のパリ心景』第4章のご紹介
































今日も『免疫学者のパリ心景』の紹介をしたい

第4章「科学と哲学の創造的関係を求めて」は以下のような構成になっている

1.オーギュスト・コントの「3段階の法則」
2.「科学の形而上学化」、あるいは「4段階の法則」
3.そもそも形而上学とは何をする学問なのか
4.なぜ「科学の形而上学化」が必要になるのか
5.意識の3層構造と第3層の重要性

6.「科学の形而上学化」の実践 


本章は「科学の形而上学化」という概念が生まれた経過とその中身について書いている

経過からも明らかなように、全くの偶然から生まれたものである

と同時に、それは一般的に「もの・こと」を認識する際にも重要になることが見えてきた

認識論あるいはエピステモロジーという言葉の意味が長らくよく分からなかった

しかし、「科学の形而上学化」を介してわたしなりにこのテーマに関わることができるようになった

それは同時に、本書が「わたしの方法序説」になっているかもしれないと考えるようになった理由にもなっている

科学と哲学の一つの関係を示すものにもなっているが、ご批判をいただければ幸いである

なお第6節の「科学の形而上学化の実践」においては、サイファイ研のカフェやフォーラムの活動についても触れている

お手に取っていただければ幸いである









2022年5月18日水曜日

『免疫学者のパリ心景』第3章のご紹介

































今日は『免疫学者のパリ心景』の第3章「科学という営み、あるいは科学者を突き動かすもの」の詳細を紹介したい

本章は以下のような構成となっている
1.「ダーウィン2009」、そしてダーウィンが試みたこと
2.ジャン・バティスト・ラマルクの思想と人生
3.エルンスト・ヘッケルが求めた一元論
4.イリヤ・メチニコフとジュール・ホフマンと自然免疫
5.トルストイの生命観と科学批判
6.ルドヴィク・フレックが見た科学という営み
7.パウル・カンメラーとウィリアム・サマリン、あるいは正統から追われた科学者
8.ニールス・イェルネという哲学的科学者
9.フランソワ・ジャコブ、あるいは科学の先にあるもの
10.フィリップ・クリルスキーが考える専門と責任の関係


本章も第2章と同様、現実との接触から触発されて過去に向かう過程を追ったものである

そこから見えてくる科学という営みの特徴、そこに生きる科学者の生身の姿が描かれている

科学者は科学界という社会に生きている

それだけではなく、これまでは見えなかった人間社会との関係の中に生きざるを得ない

そのことを真に――すなわち、哲学的に――理解することが求められる時代に入っている

その他にもいろいろなエピソードに溢れているので、至るところに思索への通路を見つけることができるのではないだろうか

そう願って書かれている

お楽しみいただければ幸いである