久し振りにシェリングに戻ってきた
ブレイクが入ったので、先に進む前にこれまでのところを振り返っておきたい
まず一番印象に残ったことは、これまで遠慮しがちに使っていた「絶対的」という言葉が至るところに散らばっていたことである
それは、わたしが遥か彼方にあると想像していた「絶対的なるもの」が急に身近に感じられる効果を齎してくれた
ここで各講義のリキャップをしておきたい
第1講「学問の絶対的概念について」
専門と普遍的なもの、絶対的なものとの関係が論じられている
結論から言うと、普遍的なもの、絶対的なものの認識のない専門には意味がなく、その認識に至るには哲学が不可欠である、となるだろう
それから「根源知」なるものが出てくるが、これは何の制約も受けない知であり、観念的であると同時に実在的でもあるという統一性を持つ絶対知である
すなわち、絶対知には観念的なものと実在的なものが不可分の状態になければならない
これはどういうことだろうか
観念的なものを哲学が生み出すものとし、実在的なものを科学が生み出すものと仮定し、それが不可分の状態になければならないと言うのだとすれば、わたしが言うところの「科学の形而上学化」の意図と極めて近いように見える
もしそうだとすれば、わたしの日常は「絶対知」を求めての歩みということになるのだが、、
急に力が出てくる推論になるが、それでよいのだろうか
ところで時間の中、有限性の中では、観念的なものと実在的なものは対立する
よく言われる「知と行為」の対立は、こうした中から生まれる
知を行為の手段と考えてはいけないのである
絶対知はそのものだけのためにあるということになる
第2講「大学の学問的および道徳的使命について」
大学の研究は、他に依存しない自立した最高の理念である「根源知」によらなければならない
真なるものは永遠であるが、個人のレベルでは有限なので、学問は伝承されなければならない
それは道徳についても同様である
しかし、現在の大学では、知が孤立した特殊に陥り、普遍的な精神が失われている
これらを鑑みる時、大学に要求すべきは普遍的なもの、絶対知の精神を呼び覚ませということである
役に立つもの、有用性のあるものが推奨され、大学が国家の道具となれば、学問は死滅する
大学は本来、学問の生命の源泉である普遍的なものを求めなければならない
そして、才能と教養だけが判断基準とならなければならない
理性的思惟への教養は理性的行為への唯一の教養だという
そして自分の専門領域から絶対的な知へ到達したとすれば、明晰と思慮の世界に至る
絶え間ない自己形成である学問は、自己との同一性へ、真に浄福な生へと導く直観へ向かうという
この状態は意識の第三層レベルにおける幸福を指しているのではないだろうか
『パリ心景』でも論じているように、学問(真理に至ること)は幸福の問題と深い繋がりを持っている
シェリングの中にもその証左が見つかったことになる
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