総論が終わり、これから各論に入る
今日は第4講「純粋な理性学である数学と哲学一般の研究について」を読みたい
本講は次の5つに分かれている
「根源知と学問」「特殊知と普遍知の対立」「空間と時間」「理念の認識と数学」「哲学とその直観」
いつものように、粛々と進めたい
「根源知と学問」について
根源知とは、全ての学問が生じる源であると同時に、帰着する終極である一なるものである
そこから末端の諸分肢に生命(認識を学問として体系化する原理)を導かなければならない
根源知は、学問(哲学と数学)の中で自己を反省する
反省する側の知と反省される側の根源知は一つに合一している
「特殊知と普遍知の対立」について
根源知を会得するには、そうでない知との対比による他ない
特殊なものの認識に至る方法を説明することはできないが、それは絶対的認識でも無制約に真なる認識でもあり得ないことは言える
ただ、これを経験主義的懐疑論や粗雑な経験主義一般の意味で理解しないでほしい
経験主義的懐疑論は、特殊なものに向けられた表象の真理性を感覚器の錯覚を基に疑うものである
その場合、錯覚がなければ自らの感性的認識を確実なものと見做してしまう
また、粗雑な経験主義一般は、感性的表象そのものの真理性を疑う
表象は触発を介して心にのぼってくるが、触発が持つ根源性が疑わしいとするからである
しかし、知と存在の因果関係(知を触発によって説明すること)自体が感性的錯誤なのである
知はそもそも限定された知であるので、依存的で制約付けられ、常に変化し、多様で異なったものになる
知において限定されたものは「形式」である
知の本質は一であり、すべてのものにおいて同一なので限定されることはない
つまり、知と知を区別するものは「形式」である
「形式」は特殊な知の中では本質と関係なく現れるので、実在ではなく仮象であり、それゆえ真の知ではない
特殊な知に対する純粋に普遍的な知は、特殊知から抽象されたもので、抽象的な知と呼ばれる
これが如何に生じるのかについても説明できないが、特殊知は形式が本質に合致していないのに対して、普遍知は形式を欠いた本質として悟性の前に現れてこざるを得ない
形式が本質を通じて認識されなければ、実体の持つ特殊で感性的なものが普遍的概念からは永久に洞察できない
真に絶対的な認識の究極の根拠と可能性は、普遍的なものが同時に特殊なものであるという点になければならない
これが諸理念を理念たらしめる理念であり、絶対者の理念である
すなわち、絶対者はこの同一性でのみあるのだから、対立項のどちらでもない
「空間と時間」について
一切の活動の否定を伴う純粋な存在が空間である
空間も抽象的概念でもなければ、具体的事物でもない
空間はそれ自身である通りのもので、存在はそれ自身のうちに概念を汲みつくしている
空間は、絶対的に実在的であるがゆえに、絶対的に観念的でもある
空間が一切の活動の否定を伴う純粋な存在として現象するならば、空間に対立する形式は、一切の存在の否定を伴う純粋な活動として現れなければならない
純粋な活動という理由から、それは自己とその対立物との同一性で、それは純粋な時間である
如何なる存在もそれ自体としては時間のうちになく、存在の様々な変化のみが時間のうちにある
この変化は活動の表出、存在の否定として現象するのである
空間に当て嵌まることは時間にも当て嵌まり、時間は普遍的なものと特殊なものとの同一性として、抽象的概念でも具体的事物でもない
時間と空間のうちに表現された統一が学問の基礎となるとすれば、学問自体は、理念の単なる反映である世界に属するものの、それにもかかわらず形式の点では絶対的なものでなくてはならない
◉「理念の認識と数学」と「哲学とその直観」については明日以降に回したい
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