2022年5月17日火曜日

シェリング『学問論』第7講を読む(つづき)

























「哲学の内的組織」について

純粋な絶対性そのものは必然的に純粋な同一性でもある

この同一性の絶対的形式は、永遠に主観でありかつ客観であるということである

主観的なもの、客観的なものはそれぞれ絶対性を持つのではなく、両者にとって等しい本質であるものが絶対性である

両者に等しい本質は、絶対的産出作用(純粋な絶対性が絶対的な形式を得ること)の客観的側面と言われるものでは、観念性として実在性の内に造形され、主観的側面においては実在性として観念性の内に造形される

絶対的なものは純粋な同一性だが、同一性であると同時に二つの統一の必然的本質でもある

このように絶対的なものを把握すれば、形式と本質の絶対的無差別点を把握したことになる

すべての学問と認識は、この絶対的無差別点から流出するのである

哲学は二つの統一を絶対性においてのみ考察する

それは実在的対立においてではなく、観念的対立においてのみなされる


「事実的学問の区分」について

根源知と哲学の内的組織は、さらに諸学問という外的な全体の形で表現されなければならない

あらゆる知の客観化は行為を通じてのみ生まれる

この行為は観念的所産を通じて外的に表現される

この観念的所産の中で最も普遍的なものは国家である

国家は必然的に知そのものにとっての外的組織、すなわち理念的で精神的な国家を含んでいる

学問が国家に関連して客観性を得ている場合、それは事実的な学問と呼ばれる

客観性への移行は、諸学を個別の学問として分離する

その際の外的図式は哲学の内的範型に従って描かれなければならない

この哲学的範型は次の三点に依拠している

第一点は、実在的世界と観念的世界が一つに見てとられる絶対的無差別点である

第二点は、実在的なものにおいて表現された絶対的な点であり、実在的世界の中心である

そして第三点は、観念的なものにおいて表現された絶対的な点であり、観念的世界の中心である

したがって、知の外的組織も三つの学問に基づくことになる

第一は、絶対的無差別点を客観的に示す学問、絶対的かつ神的な本質を直接探求する学問、すなわち神学である

第二は、哲学の実在的な面を外に提示する自然学で、有機体の自然に意識を集中し、有機体との関係がただ事実的である時は医学ということになる

そして第三は、哲学の観念的な面を分離して客観化する学問、すなわち歴史学である

歴史の最も優れた仕事が法制度の形成であるとすれば、法学となるだろう


「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」について

諸学が国家により、あるいは国家の中で客観的存在になる場合、それぞれを結び付けるものを学部という

上級学部(神学部、法学部、医学部)のうち神学は、哲学の最内奥が客観化されたものとして最高の学部でなければならない

次に、観念的なものが実在的なものより高いポテンツ(展相)にあるとすれば、法学部が医学部の前に来ることになる

哲学部に関して言えば、そもそもそのようなものは存在せず、存在もし得ないというのがわたしの主張である

なぜなら、一切のものである哲学は、一切であるがゆえに個別のものではあり得ないからである

三つの事実的学問において客観的になるのは根源知としての哲学であるが、いずれの学問によっても総体として客観的にならない

哲学を総体として客観的にするのはただ芸術だけである

つまり、哲学部は決してあり得ず、あり得るのは芸術学部だけである

芸術は外的な力ではあり得ず、国家によって特権を与えられたり制限されることもあり得ない

国家によって特権あるいは制限を加えられるのは上記の三学問だけである

国家は哲学に対しては無制限の自由のみを与える義務がある <これが帯になっていたのだ

無制限の自由を与えなければ、哲学を完全に否定してしまうことになる

昔の大学において、現在の哲学部が意味していたのは、芸術(学芸)の自由な結合体であった

現在の哲学部はかつてコレギウム・アルティウム(Collegium Artium)と呼ばれ、その構成員はアルティスト(Artist=芸術・学芸に携わる人)と呼ばれていたのである

哲学部は他学部とは異なり、国家の義務を負ってもいる教師(Doctores)を作るのではなく、自由な芸術・学芸のマイスター(Magistros=上級三学部進学の資格者、自由学芸学部での教授資格者)を作り出すところである

その使命からすれば、哲学部は最も高く最も普遍的な尊敬を受けるべきであったにもかかわらずそのようには見做されず、全体としても個別のものとしても戯画となり、世間一般の嘲笑の的となってしまった










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