2022年5月28日土曜日

シェリング『学問論』第8講を読む(つづき)

























「歴史の三つの時代」について

歴史には、自然、運命、摂理の三つの時代を想定しなければならない

これらは同じ同一性を別のやり方で表現している

自然は無限と有限が抗争に至らず、有限なるものの萌芽の内に閉じ込められている

ギリシアの宗教と詩の開花期がそうであった

人間が自然から断絶するようになると、古代世界が終わる

運命は実在的なものにおいて認識された摂理であり、摂理は観念的なものにおいて直観された運命である

キリスト教は歴史の内に摂理の時期を導き入れる

キリスト教における宇宙の直観は、宇宙を歴史として、摂理の世界として見る直観である

これがキリスト教が歴史と不可分であり、一でなければならない理由である


歴史と哲学との対立は、歴史を一連の偶然な出来事として、あるいは単なる経験的必然性として理解する時に起こる

歴史も自然や何らかの知の対象と同様に永遠なる統一から由来し、その根を絶対者の内に持っている

通俗悟性は、出来事や行為の偶然性を個人の偶然性によると見做す

しかし、その行為を行った者は一人しかいないだろう

あらゆる行為において、一段低いところから見た時にのみ、自由が存在する

つまり、個人は絶対的必然性の道具なのである

歴史におけるキリスト教の形成、民族移動、十字軍などの偉大な事件は経験的原因によるとされるが、すぐれた感性の持ち主ならば信じないであろう

たとえ経験的原因によるとして、それは永遠なる秩序の道具に過ぎないのである



「キリスト教の歴史的構成」について

歴史一般においてそうであるように、宗教の歴史も永遠の必然性に基づいている

キリスト教の歴史的構成は、次の地点から出発する

すなわち、宇宙はそれが歴史である限り、必然的に二つの側面に分かれるという見解である

古代世界では、支配している理念が有限なるものにおける無限なるものの存在で、歴史の自然的側面である

古代が終わるのは、真に無限なものが有限なものの中へ来た時であるが、それは有限なものを神化するためではなかった

そうではなく、有限なものを固有な人格において神に捧げ、神と和解するためであった

つまり、人となった神、古代の神々の世界の頂点であり終焉であったキリストが、キリスト教の第一の理念となったのである

キリストが身に付けるのは高みにある人間性ではなく、卑賎の内にある人間性である


種族の内に詩として生きているギリシアの宗教は、歴史的基礎を必要としない

それに対してキリスト教では、神的なものが永続的姿では生きておらず、儚く過ぎて行く

そのため永遠にするためには伝承が必要で、秘儀のほか、公教的な神話が存在する

(以下、略)










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