今日はプチ・ニュースから始めたい
わたしが専門としていた免疫に関するエッセイが、みすず書房から刊行されることになった
このエッセイは長い時間をかけた瞑想の後に書かれたもので、来月刊の『免疫学者のパリ心景』と響き合うところがある
また、『パリ心景』で詳しく紹介した「科学の形而上学化」の最初の本格的試みと言えるものでもある
こうしたタイミングで2つの書が世に出ることになったのには、何かしらの因縁でもあるのだろうか
詳細は未定だが、こちらも折に触れて紹介していくことにしたい
さて、シェリングである
こうして読んでみると、わたしの場合、やはりフランス、ドイツの大陸哲学に親和性があるように見える
そのためだろうが、これまでのところ違和感なく読み進むことができている
今日は第5・6講を振り返ってみたい
第5講「哲学の研究に対して通常なされる非難について」
哲学が国家にとって有害であるという非難があるが、それは2つの方向性から生まれている
第1は、粗雑で無教養な悟性、空虚な理屈をこねる教養に至った悟性で、通俗的な知が絶対的な知を判定する立場になる場合である
このような通俗的悟性を祭り上げてしまうと、学問の世界以外のところにも衆愚政治や粗野な人間の台頭を許すことになる
第二の方向性は、有用なものだけを目指すもので、それが国家にも及ぶことになる
考えて見ればわかることだが、有用なものほど不安定なものはない
なぜなら、今日有用なものは明日そうではなくなることがあるからだ
功利主義が広まると、全ての偉大なものや活力は窒息させられることになる
この潮流を止めることができるのは、哲学である
学者の中にも哲学は危険であると批判する人がいるが、哲学と対立する学問はそもそも学問ではないだろう
哲学は各分野において散らばっている事実から、もっと深く、もっと根拠付けられ、もっと密接に連関し合ったものを求めるようになる
そしてそれは、その分野にとっても有益である
哲学は包括的なもの、普遍的なものに向かおうとするのだが、そのためには豊かな古典の教養が求められる
こういう記述を読むと、新たに出ることになった免疫に関するエッセイも哲学のこの精神に裏打ちされていることを感じる
結果は判断できないが、少なくとも動機においてはシェリングの言う哲学の本質に近いものがあったことが分かる
哲学は流行に属するものだという非難があるが、哲学の本質は古代ギリシアから変わっていない
ただ、哲学の形に変化が見られるのは、哲学がまだ究極の形態を獲得していない証左ではないかと言っている
第6講「とくに哲学の研究について」
よく出される問いに、哲学は学べるのかというのがあるが、答えはそのものとして学ぶことはできない
哲学の形式や哲学史に関する知識は学べるかもしれないが、絶対者を捉える能力は別物である
ただ、訓練できる技術として、弁証法がある
哲学の根源的意図は、あらゆるものを一つのものとして記述すること、事実を超えて絶対的であるようなものへと出ていくことである
絶対に至る哲学は、普遍と特殊、理念的なものと実在的なものを一つに形成する永遠の試みである
哲学の創造的・産出的能力は、自らを形成し、高め、無限なものにまで高めていく
これは私見だが、有用性を言うとすれば、これほど有用なものはないのではないだろうか
ここで発見に至ったことは、有用性にも特殊あるいは実在的な世界でのものと、普遍あるいは理念的な世界におけるものがあり、世に言われる有用性は前者で、わたしが哲学に認める有用性は後者ということになる
哲学に入ってから感得し続けていることは、後者の意味における哲学の力である
それは、生きることを直接的に支える力のことである
「これほど有用だ」という意味はそういうことである
前者に哲学を応用しようとするところでは、哲学の持つ根源的な力が完全に破壊されるのである
心理学が哲学に取って代わるということはあり得ない
なぜなら、真の学問は魂と身体を絶対的な統一の中だけに求めるが、心理学は両者が対立すると考えるからである
従って、全てのものを因果関係の下に置き、絶対的、本質的なものを認めない
事実を重視する経験的で分析的な哲学は、絶対知に至ることができないのである
古代では有限なものと無限なものが一緒だったが、近代世界は二元論の世界になった
主観的なものと客観的なものが引き裂かれ、対立することになったのである
近代世界における哲学の使命は、この対立を破壊し、全てを包括する高次の統一を表現すること、絶対的認識を追究することである
高らかに謳うシェリングの言葉には、終わりなきその道を歩んでいきたいと思わせてくれるものがある
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