2022年5月13日金曜日

シェリング『学問論』第6講を読む(つづき)




















「心理学と哲学」について

本性的に無味乾燥な論理学を人間学的・心理学的知識によって変えられると考えるのは間違ってはいない

ただそれは、哲学を論理学に置換しようとする者が心理学に向かう性向を持っていることと同じである

心理学は魂と身体が対立するという想定に基づいている

しかし、身体に対置された魂など存在しない

真の学問は、魂と身体との本質的で絶対的な統一の中にだけ求められるものである

従って、心理学が齎すものについても容易に想像がつく


真の哲学と同様、真の自然科学もすべての事物における魂と身体との同一性(すなわち理念)からしか生まれない

なぜなら、魂に生きているのが理念であれば、自然のあらゆる事物の中に生きているのも理念だけだからである

この点で対立させられた心理学が、哲学に取って代わり得るなどということはないだろう


心理学は理念の中にある魂を知らない

心理学は魂が現象したあり方(身体)との対立においてのみ、魂を知っているのである

従って、人間の中のすべてのものを因果関係に従属させ、絶対的で本質的なものから現れてくるものを認めない

そのため、人間の内では何も神的仕方では生じないという考えになり、絶対的なものについての学問である哲学に反対し、それが宗教、芸術、道徳にまで適用される

哲学の理念は、お粗末な心理学的錯覚のいくつかから説明されることになる

その帰結は、全てのものは似たり寄ったりであるとする一般的体系になる


事実に立脚しようとする経験的な哲学、単に分析的で形式的な哲学は知へと至ることはできない

絶対知には至ることができないのである


「近代世界と二元論」について

近代世界は、一般的に対立の世界である

古代世界では一緒にされていた有限なものと無限なものが、絶対的対立として現れたのである

二元論は近代世界の必然的現象である


「主観性の哲学の流れ」について

主観的なものと客観的なものとの対立は頂点に達した

二分化を明確にしたデカルト以来、スピノザを除いて二分化に反対する現象は存在しない

このように理念が引き裂かれてしまったことで、無限なものもその意味を失い、無限なものの意味も単に主観的なものになった

デカルトは「我思う、故に我あり」によって、絶対者の理念に主観性に向かう方向を初めて与えた

彼は神・世界・魂についての考えを、哲学よりは自然学の中で語っている

何らかの対立を残しているような哲学、絶対的な調和を打ち立てていない哲学は、絶対知にまで突き進むことはできないし、絶対知にまで自己を作り上げることもできない


「哲学の使命」について

自らの哲学に課さなければならない課題は、本性上絶対者の認識でもある真に絶対的な認識を追求すること、総体性にいたるまで、一切を一者のうちに完全に把握するまで追求することである

近代世界の最後の使命は、真にすべてを包括する高次の統一を表現することである

そのような統一が存在するためには、あらゆる対立を分裂しなければならない













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