2022年5月16日月曜日

シェリング『学問論』第7講を読む





今日は、第7講「哲学にとって外的ないくつかの対立、とくに事実的な学問との対立について」を読みたい

以下のような内容になっている
「哲学と道徳の対立」

「哲学と宗教の対立」

「哲学とその他の学問との関係」 

「哲学の内的組織」

「事実的学問の区分」

「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」 

それでは始めたい


「哲学と道徳の対立」について

知と行為の対立は、本来存在するのは実践哲学だけであり、理論哲学は存在しないとする似非啓蒙主義の直接の子孫である

道徳とは神に似た心情であり、具体限定的なものを超え、普遍的領域へと高まることである

これは哲学でも同様で、両者は分かち難く一致している

それは哲学が道徳に服属するのではなく、両者は本質的、内的に等しいからである

行為の世界は知の世界と同様にそれ自身絶対的であり、倫理学は理論哲学に劣らず思弁的な学問である

従って、倫理学も哲学同様構成なしには考えることができない

道徳は普遍的な自由――公になった道徳――において客観的なものとなる

この道徳的な組織の構成は、思弁的な理念に基づいている

道徳という概念は長らく消極的なものでしかなかったが、それを積極的な形式において明らかにすることが哲学の仕事になるだろう

思弁を恐れ理論的なものから立ち去り、実践的なものに急ぐとすれば、そこには知におけると同じ浅薄さが表れるだろう

厳密に理論的な哲学研究だけが、行為に強さと道徳的意義を与えるのである


「哲学と宗教の対立」について

これは、古くから言われている理性と信仰の対立という意味ではなく、無限なものの純粋直観としての宗教と純粋直観の同一性から出ていく哲学との対立である

哲学は本性上絶対性の内にあり、その外には出ていかない

哲学は無限なものから有限なものへの移行を知らない

哲学は特殊性を絶対性において、絶対性を特殊性において把握できるという可能性に基づいている

絶対的なものに関わる精神の最高の状態は、できる限り無意識的であり続けるか、全く無垢な状態でなければならない

哲学は絶対的なものの理念を確立し、主観性から理念を解き放ち、できる限り客観的な形式で示そうとしてきた

しかし、絶対的なものは、学問を軽視するための主観化の最後の手段とされてしまった

この種の無能力や意欲のなさが、より高い要求から逃れるために宗教へと撤退するのは不思議なことではない

哲学によって宗教を手に入れることはできないし、宗教が哲学を与えたりすることもできない

内なる美となる自己自身との調和は、客観的能力と関係なく手に入れることができる

主観的なものでしかない内なる美を、外に向かって客観的に示すには別の能力が求められるのである

一切の芸術は、自然と宇宙の直観から出発して再び直観へと帰る

しかし、そう聞いている人も経験主義に従って、個々の現象あるいは特殊なものを自然だと考え、それを感情状態の比喩で表現することになるのである

最高の学問すなわち哲学においては、自然と神、学問と芸術、宗教と詩とが(つまり、あらゆるものが)一つに根源的に結び付けられている

この学問が自分の内であらゆる対立を捨てていれば、自分の外においても他のものと対立することはない


「哲学とその他の学問との関係」 について

哲学は根源知そのものの学問であるが、それは観念的にであって実在的にではない

もし知性が知るという一つの働きによって、絶対的なものの全体を実在的に捉えることができるとすれば、それは知性が有限であることを止め、一切を現実に一として捉えるだろう

根源知の実在的な表現は、哲学以外のすべての知である

両者を分けているのは具体的なものという要素で、分離と区分が後者を支配している

後者の知は個人においては実在的に一にはなれず、人類全体においてのみ一となる

現実の知は根源知の継起的な顕示であるため、必然的に歴史的な一面を持つ

あらゆる歴史は、理念の表現として外的な組織を実現することへ向かう

学問の方も客観的現象と外的な組織を与えようと必然的に努力する

学問のこの外的現象は、根源知すなわち哲学の内的な組織の表現としてのみあり得る

しかし、根源知においては一なるものも、外的現象になると分離して表現されるのである



◉ 「哲学の内的組織」、「事実的学問の区分」、「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」 については明日以降に読むことにしたい







0 件のコメント:

コメントを投稿