昨日、ネットサーフをしている時、学生時代の同期生が近くで働いていることを発見
何ということか、ということで早速仕事場を訪ねることにした
半世紀振りの再会である
流石にこの間大きく変わっていたようで、マスクのせいもあったかもしれないが、全く認識されなかった
それもそのはず、学生時代はもっと痩せており、体重差を数字で表せば30キロになる
こちらは面影を見つけて違和感はなかったのだが、相手は最後まで誰と話しているのか分からなかった可能性がある
そう言えば、同期生の2人がツアーで一緒になったのだが全く気付かず、最後に恐る恐る確かめ合ったというエピソードを話していた
人間は日々別人になると思った方がよいだろう
いずれにせよ、過去の中に入ると気持ちが涼やかになる
よいランコントルとなった
戻ってみると、途中で体に付いたのだろう、テントウムシが机の上に落ちてきた
これまでであればぞんざいに扱ったのだろうが、寸でのところで思い止まり、優しく包んでから外に逃がしてやった
本当に微かな気持ちの動きが気分を和やかにしてくれる
それでは、シェリングを始めたい
今日は、第7講「哲学にとって外的ないくつかの対立、とくに事実的な学問との対立について」のリキャップになる
まず、道徳との対立である
知と行為を対立させるのは、本来、理論哲学は存在せず、あるのは実践哲学だとする間違った啓蒙主義に由来する
道徳は限定的なものを超え普遍へと高まるもので、その点では哲学と同じである
両者は本質的、内的に同等である
思弁的、理論的なものから離れて、実践的なものに急ぐとすれば、道徳も知も浅薄さが表れる
思考することは、それ自体が行動なのだと言ったハイデッガーを想起させる
第二に、宗教との対立がある
無限なものの純粋直観としての宗教と純粋直観の同一性から出ていく哲学との対立である
しかし、哲学は絶対性(無限なもの)の中にあり、その外(有限なもの)には移行しない
最高の学問である哲学においては、すべてのもの(自然と神、学問と芸術、宗教と詩など)が一つに根源的に結び付けられている
第三は、その他の学問との関係について
哲学は根源知を求めるが、それは観念のレベルであって実在的にではない
しかし、絶対的なものの全体を実在的に捉えることができるとすれば、その知性は一切を現実的に一として捉え、有限であることを止めるだろう
根源知の実在的な表現は、哲学以外のすべての知である
そこには区分があり、歴史的側面を持つ
第四は、哲学の内的組織について
純粋な絶対性は必然的に純粋な同一性で、それは永遠に主観であり客観であることである
主観と客観には絶対性はないが、両者に等しい本質があるものが絶対性である
第五は、事実的学問の区分について
学問が国家に関連して客観性を得ているものは、事実的学問と呼ばれる
客観性への移行は、個別の学問として分離する
その外的図式は、以下の哲学の内的規範に依拠する学問に基づいている
一つは、絶対的無差別点(実在的世界と観念的世界が一つになる)を示す神学
二つは、実在的な面を外に示す自然学、それが有機体であれば医学になる
三つは、哲学の観念的な面を分離して客観化する歴史学であり、その中で最も優れたものが法制度の形成だとすれば、法学になる
第六に、学部相互の関係に触れている
国家によって客観的存在にされた諸学を結び付けるものが学部である
上級学部(神学、法学、医学)の中で神学が最高で、観念的なものが実在的なものよりポテンツが高いとすれば、法学、医学の順になるだろう
哲学に関しては、一切であるがゆえに個別のものではないのだから、哲学部など存在しようがない
哲学を総体として客観的にするのは芸術だけである
芸術や哲学が国家によって特権を与えられたり制限されることもあり得ない
それがあり得るのは上級学部だけである
国家は哲学に対して無制限の自由の身を与える義務がある
そうしなければ、哲学を完全に否定してしまうことになる
現在の哲学部の構成員は、かつてアルティスト(芸術・学芸に携わる人)と呼ばれていた
国家の義務を負っている教師を作るのではなく、自由学芸に携わる人を育成するのが哲学部である
ただ、本来ならば最も普遍的な尊敬を受けるべき哲学部が世間の笑いものになってしまったとシェリングは見ていた
0 件のコメント:
コメントを投稿