今日は、第6講「とくに哲学の研究について」を読むことにしたい
興味深い議論が展開されるのではないかという期待を抱かせるテーマである
項目は以下のようになっている
「哲学は学べるか――弁証法と哲学」
「哲学の真の目的」
「論理学と哲学」
「心理学と哲学」
「近代世界と二元論」
「主観性の哲学の流れ」
「哲学の使命」
では始めたい
「哲学は学べるか――弁証法と哲学」について
哲学は訓練や勤勉さによって学ぶことができるのか、あるいは、天性のもので神意によって与えられるものなのか
哲学はそのものとして学ぶことができない
哲学の形式に関する知識(哲学史の知識)は訓練や勤勉さによって獲得できるが、それは絶対者を捉える能力とは別ものである
ただ、哲学は学べないというのは、自然に哲学できるということを意味しない
哲学は学べないが、訓練できる部分がある
それが弁証法という技術的な側面である
弁証法の技術なしには学問としての哲学はあり得ない!
哲学の意図は、あらゆるものを一つのものとして記述し、根源知を表現しようとすることである
「哲学の真の目的」について
絶対的なものとは、普遍と特殊とを一つに形成する永遠の試みであり、この絶対者の内的本質から現象する世界に理性と想像力が流れ出てくる
この理性(理念的なものの内にある)と想像力(実在的なものの内にある)は同じものである
想像力によって生み出された真の芸術作品であれば、理念の内に統一されている矛盾と同じ矛盾の解決である
しかし、単なる反省的悟性は、対立するものの総合を矛盾として捉えるのである
哲学の創造的・産出的能力は、自らを形成し、高め、無限なものにまでポテンツを高めていく
理念に対する感覚がない場合、人はそれを創り出すことはできない
ものの本質を探究したいという衝動や欲求は、例外なく人間の中に深く植え付けられている
そのため、その目的に合いそうなものがあれば、中途半端なものでも喰いついてしまう
そうでもなければ、哲学の皮相極まりない企てが興味を引き起こすことを理解できない
非哲学(啓蒙哲学か)は常識的であるだけで健全な悟性とするが、それは真理という現金を欲し、そのための手段の不十分さに目もくれない
そのため、粗野な独断論哲学の怪物を作り出す
それは、有限なものを無限なものへと拡張しようとする
意識の事実を超えて、それ自身において絶対的であるようなものへと出ていくこと、これこそがすべての哲学の根源的な意図なのである
事物に関する通俗的で有限な見方について疑うだけでは、哲学にならない
そうした見方の空虚さを明確に認めるところまで行かなければならない
「論理学と哲学」について
論理学と呼ばれているものは、哲学における経験的な試みに属している
第一に、論理学が形式の学、哲学の純粋な技術論だとすれば、弁証法と同じ性格のものでなければならないが、それは存在していない
第二に、論理学が有限性の形式を絶対者との関係において叙述すべきものだとすれば、学問的懐疑主義でなければならないが、それには該当しない
第三に、論理学が純粋に形式的で、知の内容や実質と反対の学問であるとすれば、哲学に対立する科学になる
この論理学は、通俗的な悟性の法則を絶対的なものとして立てる経験的学理である
これは有限性の領域では正しいが、思弁においてはそうではない
第四に、法則が反省された認識にとって必然的な法則であることを、思弁的根拠から証明することに携わるのが論理学だとすると、それは絶対的学問ではなく、普遍的な体系における一つの特殊なポテンツ(展相)になる
悟性に従属する理性は推論する能力と見做され、どこまでも制約されたものである
しかし、本来の理性は絶対的な認識方法である
悟性形式を持った理性以外に理性がないとすれば、無制約的なものや超感覚的なものの直接的で確固とした認識には至らない
◉ 「心理学と哲学」、「近代世界と二元論」、「主観性の哲学の流れ」、「哲学の使命」については、明日以降に取り上げる予定である
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