本日は、シェリング『学問論』の第8講「キリスト教の歴史的構成について」を読みたい
以下のような構成となっている
「考察の目的」
「キリスト教の根本性格」
「歴史の三つの時代」
「キリスト教の歴史的構成」
本講の「考察の目的」について
実在的学問は、観念的、絶対的学問と歴史的要素によってのみ区別される
神学はこの歴史との関係の他に、思弁的理念の内にある
つまり、神学は哲学的知と歴史的知との最高の総合であり、これを表現するのが本講の目的である
最近の理念を欠いた試みの中に人類史がある
そこでは、最初の状態が未開民族の野蛮なイメージになっている
シェリングは、文化の状態は人類の最初の状態と考えているようだ
それは、国家、学問、宗教、芸術の始めは同時であるか、それらは一つであり、完全に浸透し合っていたということである
これを読んだ時、なぜか意識は生物の誕生と同じであるという考えを思い出した
「キリスト教の根本性格」について
神学の歴史的関係は、歴史的にのみ認識されるということだけに基づくのではない
キリスト教における絶対的関係とは、宇宙が歴史として道徳の王国として見られるということである
この普遍的な見方がキリスト教の根本性格を形成している
古代ギリシアの宗教では、無限なるものは有限なるものにおいてのみ直観される
これに対してキリスト教は、無限なるものへ直接的に向かうという違いがある
それ自身無限なるものであり、いかなる方向にも完結、限定されない世界である
そこでは、種々の姿は永続する自然存在者ではなく、歴史的形姿である
ギリシアの宗教では無限なるものは多ともなり得るので多神教が可能であるが、キリスト教では無限なるものは一のままで多神教とはなり得ない
ギリシアの宗教が同時として持つものを、キリスト教は継起として持っており、歴史的なのである
自然と歴史は、実在的統一と観念的統一、ギリシア世界の宗教とキリスト教の世界と関連している
キリスト教では、神的なものは自然の中に顕示するのではなく、歴史においてのみ認識できる
異教においては、自然は顕わなもので、観念的世界は神秘として退いた
逆にキリスト教では、観念的世界が露わとなり、自然は神秘として退かねばならなかった
ギリシア人にとっての自然は、それ自身において神的であった
神々は自然を超えたものではなかったのである
◉ 後半は明日以降にしたい
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