シェリングの『学問論』を読み進むことにしたい
この講義は1802年夏にイェーナ大学で行われたものである
第1講は「学問の絶対的概念について」となっている
仮に「講義の意図」、「根源知」、「知と行為」の3つのセクションに分けられている
まず「この講義の意図」について
大学に入っても学問研究の羅針盤がない場合、次の2つのケースが想定される
一つは、核心に迫ることなく、無秩序にあらゆる方向を彷徨い歩くケース
二つは、それほど素質がない場合に起こることで、低俗なことに没頭したり、あるいは将来の外面的生活に必要だと考えるものを機械的に、記憶力に頼って詰め込もうとするケース
このようなことが起こるので、研究の目的と方法に関する授業が必要である
もう一つの問題は、専門の中に埋没して普遍的なもの、絶対的なものについて考えが及ばないことである
専門に入る前に、全体の認識、全体における専門の位置の確認が欠かせないのである
「普遍、絶対」に我々の本性を解き放つためには哲学が相応しく、その仕事は哲学にのみ期待できる
「根源知」について
探求の基礎にあるものとして、それ自身において無制約な知、知の中の知である「根源知」がある
それは、観念的なものであると同時に実在的なものであるという統一性で、絶対者の理念である
つまり、あらゆる知が神的存在と結び付こうとする努力であることを示している
個別の知は「根源知」の部分として含まれているので、「根源知」に関わりのない知は実在性も意味もない
この統一性と全体性との精神において考えられていない思想はすべて空虚であり、廃棄されなければならない
「知と行為」について
よく「行動せよ!」という声が聞こえる
そう叫ぶ人は知に不得意な人である
知、特に哲学的な知は、誰でもできることではない
行為の目的となる知とは、どのような知なのか
絶対者の本性は、絶対に観念的なものが同時に実在的なものであることであった
絶対知はどの活動においても、この不可分の二重性がなければならない
時間の中にある知と時間の中にある行為では、知と行為は必然的に分離する
しかし、理念の中では知と行為はその絶対性のゆえに、一である
有限性の中で把握される限り、両者は対立する
知を行為への手段として把握する場合には、必然的に対立が生じるのである
それは知を日常の実践から得た概念でしか捉えられないからである
その場合、学問は何かの役に立つことに貢献すべきだと考える
彼らは絶対的な知と行為の関係を理解していない
そのため、一方を他方の手段と見なすことになるのである
根源知でないような真の知は存在せず、それ自身のうちに神の本質を表現しないような真の行為も存在しない
それは、絶対的な必然性による以外に真の自由は存在しないという関係と同じである
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