2022年5月4日水曜日

シェリング『学問論』第2講を読む




























今日は、シェリング『学問論』の第2講「大学の学問的および道徳的使命について」を読みたい

この講義は、「大学における研究の制約」「現在の大学の実状」「大学の本来のあり方」「大学の道徳的・社会的使命」の4つのセクションに分けられている

以下、淡々と進めたい


「大学における研究の制約」について

大学における学問研究を理解するためには、第1講で触れた「根源知」に還らなければならない

それは、他に依存しない自立した最高の理念であり、現存する諸制度の形式に囚われないものである

しかしそのような形式や外面的制約は、近代世界においては必然であり、さらに洗練されるまでは残存する


真なるものは本性上永遠であり、時間の中にあっても時間とはかかわりを持たない

しかし学問は、個人によって語られるかぎりにおいてのみ、時間と関わる

ただ、知自体は個人のものではなく、理性が知るのである

学問が永遠であるということは、伝承されなければならない

個人が本能から意識へ、獣性から理性へと高めてきたわけではなく、人類の蓄積があったためだと考えられる


道徳も個人に固有のものではなく、全体の精神から流れ出たものである

学問と同様に、人類の公共生活と共有されて生命を得た

現代の精神には、既存のものそれ自体の究明が求められる

注意すべきは、過去そのものを学問の対象とすることと、過去についての知識を知の代わりにすることの違いである

後者の場合、「原像」(Urbild)には辿り着けない

アリストテレスも自然そのものを問題としたのである


「現在の大学の実状」について

大学は歴史的な知を学ぶことに充てられ、知があらゆる孤立した特殊学問になり、普遍的な精神や知そのものが失われて行った

このような状況において、大学に対してどのような要求を出すことができるのか

それは、普遍的なもの、絶対的知の精神においてすべての学問を扱えということである

そのために、教師に精神的自由のみを与え、学問以外の考慮で彼らを束縛するのを止めることである

そうすれば、教師はその要求に沿うように自らを形成しようとするだろう


国家が大学を学問的な機構と見做そうとしているならば、理念を生かし、最高に自由な学問活動を求めなければならない

もし、大学が国家の意図の完全なる道具となる僕を形成するものに成り下がってしまえば、学問は死滅する

役に立たない、有用性がない、使えないといった理由で理念が斥けられるような場合がそれである

総合大学が目指すべきものは有機的な生命で、絶対的な学問から導かれた共同の精神(という生命原理)が必要である


「大学の本来のあり方」について

普遍的なものだけが理念の源泉で、理念は学問の生命である

個別の専門の中に埋もれ、それが全体との連関について目が行かない者は、学問の教師の資格がない

この要求は、専門分野を全体の手段と見做すことではなく、むしろその逆である

学問を役に立つものとしてのみ捉える人たちは、大学を単なる知識伝承のための施設と見做しがちである

たとえそうであっても、伝承は精神を込めて成されなければならない

その必要を認めない場合には、易しい教科書や資料の寄せ集めを読むだけに終わるだろう

自らの学問全体を自分自身の力で構成し、内面的な生きた直観で叙述することができない時、単なる歴史的講述をせざるを得なくなるのである

これほど精神を駄目にしてしまうものはない

優れた教師は、単に結果を示すのではなく、結果に到達する方法そのものを叙述し、学問全体を学生の目の前で生起させる


「大学の道徳的・社会的使命」について

市民社会は理念と現実との決定的な不調和を顕わにしている

それは、理念から生まれる目的とは違う目的を追求しなければならなかったり、目的が生み出した手段が強力になり目的が見えなくなったりするからである

市民社会は絶対的なものを損なってでも、経験的な目的を追求しなければならない

大学では、学問以外のものが重視されるべきではなく、才能と教養による差異以外は存在すべきではない

そうならないとすれば、それは大抵教師の責任である


学問の世界は、民主政治ではなく、いわんや衆愚政治でもない

最も高貴な意味での貴族政治なのである

最も優れたものが支配しなければならない

無能な者が引き立てられることさえなければ、才能あるものを保護する必要もない

この政策が行われれば、その機関は充実し、内には品位が、外には名声が高まるであろう


理性的思惟への教養――人間の本質そのものの中に浸透する唯一真なる学問的な教養――は、理性的行為への唯一の教養でもある

教養を完成し、自身の特殊な学問から絶対的な知へと到達した者は、明晰と思慮の王国へと高まっている

人間が絶対的意識にまで透徹し、完全な光明のうちに生きるならば、一切は得られたのである

学問は絶え間ない自己形成であり、直接自己との同一性へと、またそれによって真に浄福な生へと導く直観へと向かわせる









0 件のコメント:

コメントを投稿