2021年8月31日火曜日
8月を振り返って
2021年8月30日月曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(20)
2021年8月29日日曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(19)
2021年8月28日土曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(18)
わたしは「道徳」について語りながら、基本原理の問題はここでは無視し、単に個々の経験に訴える
『道徳的経験』はフレデリック・ローの著作のタイトルである
彼によれば、行動する前に自分の良心に耳を傾けるだけでは十分でない
良心が言うことを、彼が言うところの「有能な人間」に相談しながら感覚として捉えなければならないという
しかし、「有能」という概念がその人に相応しいかどうかを我々は疑うことができる
道徳的経験は我々が持っている義務の経験で、他者が生きるため、あるいはわたしが言ったように「良く生きる」ために助けに来るかどうかを決めるのは我々ではない
「良く生きる」ということは良く死ぬということも意味し得る
もしわたしを最も必要としている人が希望を失い病床にある場合、誰が何らかの治療に対する熱心さによって、その人の人生が不当に延長されることがないように決めることができるのだろうか
最後の瞬間に最も有効な鎮痛剤が使われるように、誰が要求することができるのか
誰が「装置を外す」ことができるのか
医者なのか
とんでもない
医者が有能なのは、医療においてだけである
原則として、医者は患者が生きるか、生きるのを止める、あるいは死を早めるためにすべきことを知っている
この問題は何らかの能力に属するものではなく、ある教会が強いる強制ではもっとない
それは人間の感情に属するものなのである
2021年8月27日金曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(17)
2021年8月26日木曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(16)
2021年8月25日水曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(15)
倫理以上のものではないこのニヒリズムは、道徳にまで及ぶことはないとわたしは言った
モンテーニュはピュロン主義の立場の限界をここに見ていた
なぜなら、我々自身の義務を疑うことができないからである
あるいは寧ろ、我々が疑うことができない義務があると言えるだろうか
道徳的義務はカントが見ていたように、無条件の命法の形を採る
もし他者がわたしだけができる救助を必要としていれば、その人を助けるというわたしの義務は、世界で最も疑う余地のないことである
もし川に溺れている子供をわたしが見たとし、わたしだけが助けることができるとすれば、それが夢の話で、デカルトのように、川の存在を疑うことはできるだろうが、子供を助け出さなければならない、あるいは助けるように努めなければならないということを疑う余地はない
当然のことだが、もし川の畔に他の人が一緒にいれば、救助の役目を負うのがわたしであることはすこし明確ではなくなる
各々はまず血縁あるいは友情の絆で結ばれている人に尽くす必要がある
その結果、彼らにとってかけがえのない人になる
しかし、イランの地震の犠牲者に救いの手を差し伸べなければならない
そう、この義務もまた無条件なのである
しかし、この場合の義務の主体は社会全体である
なぜなら、すべての人間にはすべての人間に連帯する義務があるからである
従って、特にお金を持っていない場合には、この義務は必ずしもわたしのものではない
これに対して、わたしの両親やわたしの友人のような人が、生き、あるいは死ぬのを助けるためにわたししかいないとしたら、その人を助ける義務は絶対的に「わたしの」義務であり、それは如何なる憐憫や愛情の感情とは関係なくその人自身によって課せられるものである
このような絶対的義務は、その人が全く知らない人であれ、わたしの敵であれ、存在し得るのである
1870年の普仏戦争の際、一人の女性が負傷したプロイセン人を助けた
その時、彼が自分の息子がしていたような時計を付けているのを見て、彼が息子を殺したのではないかと類推する
それでも彼女は治療できるのが自分だけでなくなるまで彼を治療したのである
2021年8月24日火曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(14)
αρρεπώς(どちら側にも傾かず)
我々は、彼が不寛容、魔女裁判、司法問題、拷問、虐待、そしてあらゆる形の残忍さに対してどれだけ力強く発言することになるのかを知っている
確かに、善と悪、美と醜、正義と不正義の間には極端な違いがある
この領域では、我々は彼に従うことしかできない
しかし、ピュロンと共に、幸福を欲することは自然なことではないのだろうか
何のための人生か、幸せに生きるためではないのか
これはモンテーニュの答えでもあっただろう
しかし、わたしが始めるに当たって言ったように、哲学は真理を求めるもので、スピノザがどのように考えようが、幸福を求めるものではない
なぜなら、真理が必ずや悦びを齎すものと想定する権利は全くないからである
その上、アリストテレスによれば、喜びは活動の目的ではなく、「突然現れる目的のようなもの」で、幸福は特にそれを探していない時に得られるのと同様である
そして、哲学者の活動が齎すものの事情もこのようなものである
それは、哲学的探求の目的とは程遠いが、その条件である幸福のようなものである
それはしばしば、哲学者が省察や瞑想や自由な精神に専念することを可能にするある種の家庭的な幸福である
ベルクソンやヘーゲルやハイデッガー、あるいはおそらくソクラテスやプラトンがそうであったように、モンテーニュもこのような状態にあった
従って、わたしが理解しているように、哲学者の倫理は倫理や知恵や陶酔ではないだろう
わたしは寧ろ、「悲劇的な」知恵としたい
もしあらゆる「もの・こと」の必然的な消滅を信じるとすれば、ピンダロスが言ったように「変わりやすい流れが我々を押し流す」かもしれないが、まず生きるために、それからこの人生にできる限りの価値を与えるために、そして我々が幻想であり虚構であるすべてをご破算にすれば希望をなくす危険性がある真理に向き合うために断固とした決断こそが必要である
その上、死すべきものであることが知られている人生の基本的な調性は悲しみである
悲劇的で英雄的な知恵は、この悲しみが毎日、そして一日中乗り越えられるよう要求する
また、特に他者を考慮して、悲しくならないよう、喜びに理があるよう要求する
簡単に言うと、ニヒリズムの根底には知恵のカギである勇気がある
2021年8月23日月曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(13)
2021年8月22日日曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(12)
この悲しみは、特に、なくてはならない人々を失った老人のものである
ヘーゲルは、一般的に終わったものから来る「悲しみ」(Trauer)について語っている
「有限性」(Endlichkeit)が絶対化される時、つまり、それが本当に真剣に受け止められる時、すでにいた人がいなくなるということは、決定的でどうしようもないものとして考えられる
悲しみについてモンテーニュは、「愛しもしないし、高く評価もしない」と言っている
しかし、憐憫の情は悲しい心である
モンテーニュは憐憫の情を経験している(この点で我々はそれをブッダに結びつけることができた)
「わたしが畑を与えないものから生きた動物を取ることは殆どない」
彼は狩猟が嫌いで、「防御の術もない、我々が何の攻撃を受けたわけでもない無垢な動物を追い、そして殺すのを不快感なしに見ること」ができない
降伏した鹿が「涙ながらに我々に慈悲を求める」姿は、「非常に不快な見世物」である
彼は、「人類の普遍的な義務は、命と感情を持つ動物だけに限らず、木々や植物にまで及ぶ」ことを認めている
なぜなら、「木々でさえ、加えられた攻撃に対して悲鳴を上げているように見えるからである」と彼は言っている
今日、我々は種が消滅するのを見ている
どうしてそこに悲しみを感じないことができようか
わたしはキジバトやアザラシやクジラなどを支持している
このように、有限なものが消えていくということは、悲しみなしにはないのである
ギリシア人が強く感じていた存在の生まれ持った憂鬱がある
「これが神々が哀れな死すべきものに紡ぐ運命である。悲しみに生きること。一方、神々はすべての心配事のないままである」とホメロスは書いている
種が消滅することは何と悲しいことだろうか
しかし、キジバトもアザラシもクジラも、我々にとって本質的なものではない
全ての人生を真に暗くする悲しみは、我々の愛が向かっていた唯一人のかけがえのない人の死や不在の悲しみである
我々が失うものは、まさしくその光、その日没、その木々と花のある世界である
我々はそれらの世界をその人と見ることに慣れていたので、その人がいないと、もうそれらを見ることができないのである
2021年8月21日土曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(11)
2021年8月20日金曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(10)
それに対して、わたしは神や絶対的あるいは至高の存在という考えを遠ざけたので、モンテーニュとはこの点で違う立場を採り、存在そのもののニヒリズムを支持している
しかし、わたしはパルメニデスにコメントしたが、パルメニデスの εστι(esti)が、それ自体で在り、自力で存続するどの絶対的存在なのかわたしには分からないが、そのような絶対的存在を指しているのではなく、単に「在る」ことを意味している
「在る」ものについて言えば、それは個々の存在者(onta)である
しかし、これらの存在者は本当にそうなのか
この問いに対するわたしの答えは、モンテーニュの答え、すなわち個々の存在者のニヒリズムである
デカルトと異なりモンテーニュは、存在の問題を明確に問う
「存在」と言われるに値する存在とは何なのか
「在る」とは本当は何なのか
モンテーニュは問う
「なぜ我々は永遠の夜の無限の流れの中で閃光にしか過ぎないこの瞬間の存在ーーそれは我々の永遠の自然な状態の本当に短い中断なのだがーーという肩書を取るのだろうか。ーー実は、死がこの瞬間の前と後、そしてこの瞬間のかなりの部分を占めているのだが」
それは50年、あるいは80年かもう少し長い人生なのだろうか
無限の時の中では一瞬である
無限の時のすべての間、短い中断を除いて、我々はまだ存在していないか、もう存在していない
それは、我々の前と後の無限、エピクロスの非生命、ルクレティウスの永遠の死(mors aeterna)である
唯物論は死の哲学である
我々は唯物論に非常に近いところにいるーー魂の永遠もなければ、何かが生き残ることもないーー
非常に近いか、そこを超えてさえいる
なぜなら、モンテーニュがやった存在という考えを問うことを唯物論はしないからである
「これほど短い」時間しか生きないし、存在しない、これで本当に存在しているのか
自称「個々の存在者」が何らかの自分自身のアイデンティティを維持しているとしても、我々は常に変わっている
「一定の存在は何もない、我々の存在も物体の存在も」とヘラクレイトスと共にモンテーニュは指摘する
「そして、我々、我々の判断、すべての死すべきものは、休むことなく流れ、転がる」
結論は「我々は存在と全くコミュニケーションが取れていない」ということである
語るべきは「存在」ではなく、「漠然とした見かけと影」である
2021年8月19日木曜日
コンシュさんを瞑想しながら読む
2021年8月18日水曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(9)
しかし、もし我々が神の概念を放棄すれば、崩壊するのは建物全体である
わたしは『哲学的オリエンテーション』の中で、有機的な全体性としての現実全体という考え、そして普遍的な秩序や感知される世界、勿論(神の)摂理という考えだけではなく、(絶対的)真理、人間(当然の権利としての人間)の真理、そして最後には存在という考えをどのようにして捨てなければならなかったを説明した
それが行き着いたところは、存在論的ニヒリズムであった
そこで何を理解しなければならないのだろうか
わたしは、個々の存在者(l'étant)のニヒリズムと存在それ自体(l'être)のニヒリズムとを区別したい
存在それ自体のニヒリズムは、絶対的存在の概念に照準を定めている
個々の存在のニヒリズムは、これやあれや、この机、この椅子の存在を対象としている
デルポイのアポローン神殿の入口(pronaos)に、有名な箴言の横に、最初は木製で、それから青銅になり、そしてアウグストゥスの時代にはついに金製になったE(エプシロン)があった
プルタルコスの対話篇『デルポイのEについて』では、プラトン派の哲学者アンモニオスが次のように解釈している
Eとは、εί「あなたは存在する」の最初の文字だろう
それは神への挨拶のやり方である
エウセビオス、キュリロス、テオドレトスのような教父は、プルタルコスのこの箇所を引用した
エホバはモーゼに「わたしは存在する者である」と言わなかったか
これを現代風に解釈すれば、「わたしは本質が存在することである存在者である」となり、本質によって存在しているのではないために存在することができない有限の存在者とは異なる
モンテーニュは自身のインスピレーションからではなく、プルタルコスを書き写してこう書いたのは本当である
「神だけが存在する・・・神以外に真に存在するものはない」
モンテーニュのニヒリズムは、個々の存在者のニヒリズムである
なぜなら、神以外の存在は真に存在していないからである
しかしそれは、存在それ自体のニヒリズムではない
2021年8月17日火曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(8)
モンテーニュやデカルトは一人称で哲学する
わたしもそうやってみようではないか
わたしは不変ではない、明日は変わっているかもしれない政治的、経済的意見ではなく、わたしの「経験された確信」を語るようにしている
この確信は不変ではないがーーすべては不変ではないーーゆっくり進化し、わたしの人生の最後まで殆ど同じままでいる可能性が高い
昔、ここトゥールーズで「絶対」悪としての子供の苦しみについて語ったことがある
それは、わたしがどんな神の摂理とも相容れないと判断した悪ーー不幸ーーのことであった
議論には実証的価値がないことは認める
それを除けば、神の存在の問題はきっぱりと否定されて解決されるだろう
いずれにせよ、わたしにとってこの問題はケリがついたのである
さらに、神ーー超越的な神ーーの概念は暫くの間、空疎で対象のない概念に過ぎないものに見えたのである
宗教がなければ、その意味を見出すことは不可能だろう
神という概念は哲学的概念ではない
神が役割を担う哲学は不純な哲学である
真の哲学というよりは、そして多くの哲学的解析と議論がなされてはいるが、それは宗教的イデオロギーである
西洋では、それはキリスト教のイデオロギーになる
デカルトやカントの体系はこのようなものである
2021年8月16日月曜日
フランスの日常を日本に取り込む
フランスから荷物が届いてから10日ほど経つが、なかなか手を付ける気分にならなかった
どのようにオーガナイズするのか、アイディアが浮かんでこなかったからだろう
徹底的にではないが探していた本も最後の1冊が見つからず、すべてを整理し直さなければならないと考えるようになった
この休みに(と言っても世の中は、であるが)「ひっくり返す」作業を少しずつ始めた
それをやっているうちに、その先に来るべき姿が浮かんでくる
ここ暫くは、この作業を続けることにした
それから部屋に置いていた小物も届いているので、それをどのようにアレンジするのかも考えなければならない
現在の場所は長期的に見ればテンポラリーになるかもしれないが、短期的に見れば落ち着くところになる
そこに小さいながらもフランスで身近にあったものを置くことにより、これまでとは違った心理効果が現れるのではないか
そんな期待とともに、これから楽しむことにしたい
2021年8月15日日曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(7)
カントは、単なる意見と、その試金石が賭けである揺るぎない確信を対立させる
しばしば起こるのは、誰かが自信に満ち、妥協を許さない大胆さで提案するので、間違いを犯す心配は全くないように見えることである。賭けが彼を考えさせる。彼は時に自分の説得が10デュカではないが、1デュカに値すると確信する様子を見せる。確かに彼は、最初のデュカを危険に晒すだろう。しかし彼は、それまで気付いていなかったこと、すなわち彼が間違っていたかもしれないことに気付き始めるのである。そのことに全人生の幸福を賭けなければならないと想像してみよう。そうすると、我々の成功した判断は完全に崩壊し、恐れを抱くようになり、我々の信念がそんなに遠くまで行かないことを発見し始めるのである。
神は存在する、あるいは存在しない、魂は永遠である、あるいはそうではないと信じているとあたなは言う
あなたは、自分の財産を、例えば、もし間違えば全身に癌が広がることを了解した上で、自分の健康を危険に晒す準備はできるだろうか
このような仮定は、たとえ純粋に架空のことではあるかもしれないが、信念の確実性のなさを明らかにするには十分なのである
2021年8月14日土曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(6)
2021年8月13日金曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(5)
久し振りにコンシュさんの「哲学の意味」に戻ってくることができた
また、ゆっくり読んでいきたい
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それにもかかわらず、形而上学的問題に関しては懐疑主義は正しいのである
それを望むか否かに関わらず、形而上学的懐疑主義は現代のすべての哲学者の共通の宿命である
しかし、我々は判断の停止に留まるつもりなのだろうか
哲学者はその解決法を知らないだろう
ここにいるのは本物の人間である哲学者である
哲学するということは人間存在と無縁ではない
あれではなくこれを食べるとか、他の仕事ではなくこちらをやるとか、ある政治的意見や宗教的信仰を持つという事実のように
なぜなら、肉を食べようが野菜を食べようが、金細工職人であろうが道路清掃人であろうが、共和国連合を支持していようが社会党のために活動しようが、キリスト教徒であろうがイスラム教徒であろうが、それでも我々は人間だからである
一方、哲学者でなくなった人間は、人間としての地位を失うことになり、植物や動物、あるいは神のようになるであろう
「人間にとって当然のことは、哲学することなしに生きることはしないことである」とわたしは書いた
わたしにはいつもそのように見える
ハイデッガーは非常にうまく言っている
我々は哲学について明確には何も知らないかもしれないが、我々はすでに哲学の中にいる。なぜなら、我々は長い間哲学している・・・という意味において、哲学は我々の中にあり、我々自身の一部を構成しているからである。人間としてここに在るということは、哲学することを意味しているのである。
実際、如何なる人間も生と死、あるいは人間についての何らかの考えを持たずに生きることをしない
この場合、そうと知らずに哲学者であるのと同じくらい、誠実に哲学している
しかし理性が、一時的ではなく決定的な形で、決定不可能なものを前にしてどのように哲学すればよいのだろうか
懐疑主義の体制の中でどのように哲学すればよいのだろうか
それにもかかわらず、朝起き、ある人生が選択され、決断が行われるという単純な事実から、それは必要なのである
2021年8月12日木曜日
瞬間瞬間が意味を持つ緊張感溢れる道行の条件
2021年8月11日水曜日
別人が書いたかと思われるこのブログ
オーギュスト・コントについて調べるために、このブログを検索してみた
パリの学生生活を終えてからここに移ってきたのだが、読み返してみて驚いた
学生時代のことはかなりはっきりと覚えているが、ここに書いたことは余り記憶に残っていないのである
そのため、どこか別人が書いたのではないかと思えるものが少なくなかった
やはり学生時代には感覚器が異常に興奮していたのかもしれない
このブログはどのような気分で書いていたのだろうか
まだ分からない
ただ言えることは、このブログが今の自分にとって極めて興味深い読み物になりそうだということである
何しろ別人が書いているので、非常に新鮮に映るからだ
これまで読み返すことは殆んどなかったこのブログ、折に触れていろいろな検索をかけてみたいものである
2021年8月10日火曜日
地上の生活が一段落
今日も日中は地上での時間となった
朝、激しい雨の中、携帯のオプション変更とうまく動かないところがあるので相談に行った
係りの人の対応がきびきびしていて、気持ちがよくなる
若い人の頭の働き方が我(々)とは違うことに改めて驚く
午後は免許更新のための講習会へ
実地も含まれているので弱点がよく分かった
夜、ほぼ1週間振りに長期プロジェに向き合う時間が取れた
最後の一塊の姿が少しずつ見えてくるように感じられるのだが、、、
2021年8月9日月曜日
フランスとのやり取りを終える
このところ地上の世界に塗れていたせいか、疲れが溜まっていたようだ
今日はのんびりと過ごすことにした
携帯を持つことをしたが、その番号をフランスに電話で伝えなければならない
今日、やっとのことで変更することができ、これでフランスとのやり取りが終わったことになる
一先ずすっきりしたが、まだアメリカとのやり取りが残っている
こちらはいつになるのか、全く予想ができない
ところで、今日の風は秋の匂いがした
2021年8月8日日曜日
スマートフォンを使い始める
昨日庭に出ると、昨年発見した野イチゴが実を付けているのを見つける
昨年、8月に入らないと実を付けないことを学んだので、そろそろだと思っていた
まだ出始めという感じだが、これからさらに広がる過程を観察してみたい
昨日はもう一つ新しいことをした
何を今更という感じだが、スマートフォンを使い始めた
フランスではショートメッセージが読める小さな画面が付いた携帯を持っていたが、日本ではなかった
今回、フランスとのやり取りでショートメッセージ以外を受け付けていないところがあり、仕方なく持つことにした
それ以外に目的はなかったのだが、手に取ってみると新しい景色が開ける可能性も感じた
道具に使われるということだろうか
折に触れて使うことになりそうである
2021年8月7日土曜日
思索の対象が濾過されてきた
フランスから荷物が届いたので、昨日、参照すべき本を探してみた
よくも次から次に出るものだと思いながらの汗だくになりながら
最近では記憶も怪しくなり、背表紙や全体の印象も全く違うことがあるので慎重に確認しながらの作業となった
全体の半分程度をチェックしたが、残念ながらその中には見つからなかった
日を改めてもう半分を調べることになる
ただ、この作業の中で収穫もあった
それは、今の自分にとって必要なものがはっきりしてきたことである
つまり、それ以外は当分の間捨てておいてもよいと思うことができたことである
向こうにいる時には、全体を緩やかにではあるが抱擁するような感じがあった
この1年半の日本生活の影響か、その感覚がなくなっているのを昨日感じた
ここから次のような図が見えてくる
10数年に亘るフランス生活は、この世界にあるものに手当たり次第に触れる時間だった
「手当たり次第」とは言うものの、その時点で自分が反応したものであるのは間違いない
そして、そこを離れた時間の中で、今の自分にとって重要なものが濾過されてきたように見える
実は「今の自分」というのもこれまでの経験の結果作られたものになる
その意味では、すべての接触には意味があったことになる
これから進むべき方向がこれまでより明確になってきたように感じられる週末の朝である
2021年8月6日金曜日
フランスからの荷物届く
2021年8月4日水曜日
大雨で足止めを食らう
今日は朝から用事があり出かけたが、蒸し暑い
予想以上に早く終わったので、久し振りに映画を観た
それが終わって帰ろうとしたところ、大雨でJRは運転見合わせ
こういうことが何の予告もなく起こるのが、このところの地球ということか
根比べを決め込んで、カフェで時間を潰すことにした
それもまた楽しからずや
と思って粘ったが、根負けしたようだ
2021年8月3日火曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(4)
科学は超自然に関わる問題に決着をつけることはできないが、宇宙的問題について同じことは言えないことに異議が出るかもしれない
世界は時空において有限なのか無限なのか
起源から始まり、もはや無限に開かれたユークリッド空間ではない空間の中で膨張しつつある宇宙
この宇宙はその向こうはなく、閉じている
それは明らかに、純粋理性のカントの最初の二律背反について考えるとすれば、有限主義を支持している
物質は無限に分割できるのか
今日、物質の解析はクウォークで止まっていて、クウォークの分割を可能にする実験は予定されていない
カントの第二の二律背反について考えるとすれば、科学は原子論を支持しているように見える
ここでもそれは有限主義の主張である
そうだとしてみよう
しかし、止まるのを知らないのは科学の進歩による
今日、科学が言うことを我々は知っている
明日は何をいうのだろうか
しかし、科学が今日我々に言うことを不動の真理として受け取ってみよう
宇宙や物質について科学が提供するイメージは、データから構築したイメージである
しかし、与えられたものは決して全体としての自然ではない
従って、科学による世界のイメージと、パスカルの言葉を再び使うとすれば、「その高く満ちみちた威容の内にある全自然」との間には必然的な不釣り合いがある
それは、科学が哲学者に考えさせる何かを持っていないということではない
現時点では、人間の性質について齎す新しい光によって哲学者を思考させる何かを持っているバイオテクノロジーの発見がそうである
クローン化は、いかなる心理学者も敢えて思い描くことがなかったであろう人間の解析を可能にするだろう
わたしのクローンになるもの、それが考えること、どのように行動するのかを見ることにより、本質的にわたしのものであるもの、わたしの遺伝形質ではなく、意志と自由に属するものを知ることになるだろう
モンテーニュのクローンは『エッセイ』を書いただろうか