2022年11月30日水曜日
11月を振り返って
2022年11月29日火曜日
コリングウッドによる自然(51): ヘーゲル(6)
2022年11月28日月曜日
コリングウッドによる自然(50): ヘーゲル(5)
2022年11月27日日曜日
コリングウッドによる自然(49): ヘーゲル(4)
ヘーゲル(1770-1831)の哲学観は、主観的観念論のバークリー(1685-1753)やカント(1724-1804)に共通するところがある
主観的観念論という言葉はヘーゲルが作ったのかどうか分からないが、一般には彼に由来するとされる
ヘーゲルによれば、これは観念や概念が一人の主体にだけ存在する、あるいは「観念がその人の頭の中にだけある」とする錯覚のことである
彼はこの錯覚を、デカルト(1596-1650)の心身二元論の遺産と見ている
心身二元論は物質的でないものは何でも精神的なものだと考える癖を付け、概念を思考の前提とするのではなく、単なる思考法、思考の癖にしてしまった
この点で、主観的観念論は自分の精神以外は存在しないとする独我論とは区別しなければならない
ただ、独我論も主観的観念論の一形態と考えられるが、それはバークリーやカントの考えとは異なっていた
ヘーゲルの哲学は三部から成る体系である
第一部は論理学で、観念の理論である
第二部は自然の理論で、第三部は精神の理論である
これらが哲学的科学の百科事典を構成し、あらゆる哲学の論題や教義はこの枠組みのどこかに収まる
ここではその全体を説明しようとするのではなく、彼の自然の概念の概略を述べ、それが観念や精神とどのように対するのかを示したい
2022年11月26日土曜日
コリングウッドによる自然(48): ヘーゲル(3)
2022年11月25日金曜日
コリングウッドによる自然(47): ヘーゲル(2)
2022年11月24日木曜日
コリングウッドによる自然(46): ヘーゲル(1)
2022年11月23日水曜日
今年はしっかり振り返ることに
2022年11月22日火曜日
再び大阪で科学の在り方について語り合う
2022年11月21日月曜日
大阪で4年振りの旧交を温める
今日は大阪まで足を延ばした
コロナの前、クリルスキーさんの『免疫の科学論』を出した時以来の関西になる
日中は免疫のエッセイの校正に追われていたが、夜、4年振りにY氏との会食が実現した
それ以前には、パリでご夫妻と食事をする機会があった
現役時代、東京では仕事場が近くだったのでお世話になり、大阪に移られてからも大学の講義によく呼んでいただいた
コロナの間は意識から消えていた関西だが、少なくとも今はそれはなくなっている
少しは前に進んだ状態に入っているのだろう
大阪大学を終え、大学を一つ経た後は一切仕事は止められたとのことで、悠々自適の生活とお見受けした
地元の?おいしい料理を酒の友としながら話が弾んだ
少々お酒が進んだようで、話の中身はすぐには思い浮かばない
一つは、コロナ直前に訪れたエジプトが良かったとのお話で、強く勧められた
フランスにいると、いろいろなところが近いのだが、不思議なもので日本から世界を見ている感じがあり、イギリスも遠くの国という印象であったことを思い出した
機会ができれば再び動き回りたいものである
それからわたしのエッセイ本『免疫学者のパリ心景』についても話題に出ていた
まず、タイトルの『パリ心景』が素晴らしいが、一体どこから出てきたのかとのお言葉
編集者のアイディアで、九鬼周造(1888-1941)のことも伝えた
表紙のことはこれまで何度も聞いていたので驚かなかったが、1ページの印刷のされ方が非常に良い感じだったとのこと
これはわたしにはピンとこなかったのだが、余白の取り方(バランス)が違い、読みやすかったようである
そして、これまでのエッセイが恰もこの本を作るために書かれていたかのように、流れるような構成になっていて驚いたとの評であった
そんな考えを持つこともなく、只管書き進めてきたエッセイなので、それは偶然の成せる業と言えるだろう
いずれにせよ非常に好評で、弟子の教授にも贈ってくれたようである
自由な時間をお持ちのようであったので、いずれわたしの潜伏先にもお出ましいただけるかもしれない
お互い長生きしようね、というのが最後の挨拶になる年頃になってきたようである
2022年11月20日日曜日
西行展で、狩野尚信の『富士見西行』に出会う
週末ということもあるのか、講演会があるからなのか、多くの人を見かけた
そして、職員の方が非常に丁寧に対応していることに気が付いた
西行(1118-1190)は12世紀、平安から鎌倉にかけての武士であったが、23歳で出家した
昨日はこの絵の前に来た時、気持ちが一気に開放されるのを感じた
それは、狩野尚信(1607-1650)による『富士見西行・大原御幸図屏風』(六曲一双)の右隻『富士見西行』である
この三曲の中央右手上から右にかけて富士が描かれ、中央左からたっぷりとした空白があり、左下方に富士を仰ぐ旅姿の西行が小さく描かれている
画集を見ても開放感は襲って来ないので、大きな絵の中にあるあの広い自然(空白)の中にいることを感じ取れる空間が必要だったのだろう
そして、そこにいる西行の姿が自分と重なったということなのだろうか
何とも幸福な気持ちになった
この絵は以下の歌に肖ったもののようである
風になびく富士のけぶりの空に消て行方も知らぬ我思哉
「今日はこの絵のためにだけにここに来たのか」といういつもの声も聞こえた
展示のおそらく半分以上を占める書に関しては、まだ興味が熟していないようであった
もう5年前になるが、吉野山の西行庵を訪問したことを思い出した
吉野山奥千本『西行庵』へ(2017年11月5日)
2022年11月19日土曜日
日比谷公園でのデジュネの後は、平櫛田中
2022年11月18日金曜日
パスツール生誕200年記念「クリルスキー先生を囲む会」で考える
2022年11月17日木曜日
パスツール生誕200周年記念セミナーとチャリティ・パーティ
今年はパスツール生誕200年に当たる
1822年に生まれ、1895年に亡くなっているので、72年の人生であった
昨日の記念セミナーは「パスツールの食と健康への貢献」と題され、日本パスツール財団の主催でフランス大使館で開催された
大使館にはフランスに渡る前に何度か顔を出しているので、懐かしい思いであった
このセミナーでまず、パスツール研究所元所長のフィリップ・クリルスキー博士がパスツールの業績を振り返った
当初は東京を訪問されお話される予定だったが叶わなず、ビデオでの講演となった
その後、東北大学名誉教授の齋藤忠夫博士が「乳酸菌のはたらきとパスツール」について、また酒類総合研究所前理事長の後藤奈美博士が「パスツールのワインの研究と日本ワイン」について講演された
特に印象的だったのは、日本やアジアの乳酸菌研究が非常に活発で、種々の病的状態に効果を示す機能性ヨーグルトも開発されているようだ
例えば、ピロリ菌排除、睡眠の質向上、肥満防止、骨粗鬆症予防、アレルギー防止、免疫機能向上、認知機能維持などに効果があるヨーグルトがすでに開発されているとのこと
その市場も拡大しているようである
齋藤忠夫博士
セミナーの後は、場所を大使公邸に移し、チャリティ・パーティが開かれた
参加者はセミナーより大幅に増えていた
このような会には何度か参加させていただいているが、知っている人がいないのが常
どのような人が参加されているのか想像もできないのである
この日、セミナーで講師を務められた齋藤忠夫氏と言葉を交わすことができたのは幸いであった
2022年11月16日水曜日
コリングウッドによる自然(45): 18世紀(8)
2022年11月15日火曜日
コリングウッドによる自然(44): 18世紀(7)
科学知が特別な領域で、その外に他の思考法で探求すべき領域があるという指摘は新しいものではないと強調しておきたい
デカルト(1596-1650)が唱えた「普遍学」は、歴史、詩、神性という3つの領域の外に構想されたものである
これらの領域で有効だった思考形態をデカルトは価値がないとは見做さなかった
これらの思考を重視していたが、彼が提唱する学問は狭義の科学的方法だったので、そこから排除したのである
カント(1724-1804)はこの視点をデカルトから受け継いだが、一点だけ異なっていた
それは、デカルトが形而上学を科学的方法の中に入れたのに対し、カントはその外に置いたのである
つまり、科学知の対象は神でも精神でも物自体でもなく自然であり、その方法は知覚と悟性の組み合わせである
この方法で明らかにされるのが自然なので、それは繰り返され予測可能であるが故に科学的な方法で理解される単なる現象に過ぎなくなる
これらの真理は科学的ではない知によって齎される
それを哲学的な知と呼ぶことにしよう
そうすると、物自体があるという我々の知識は哲学的な知になり、物自体が何かを教えなければならないのは哲学的知になるのである
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今日のお話はわたしのこれまでの道行と深く関わるもので、実に興味深かった
わたしが感じてきた疑問や問題が、このような形で議論されていたことが分かったからである
これは、科学と哲学の中心的課題とわたしの思索が交わっていたことを意味している
満更的外れでなかったどころか、的を射ていたと言えるのではないか
デカルトの知は、形而上学を根にして幹が物理学、そして枝がそれぞれの科学と道徳から成り立っていた
「科学の形而上学化」は、カントが科学の外に置いた形而上学を科学をより深く理解するために再び活用しようとする試みとして捉え直すことができる
カントは科学者の必読書だと言われたことがあるが、その意味が分かったような気がする
実践する必要がありそうだ
2022年11月14日月曜日
コリングウッドによる自然(43): 18世紀(6)
2022年11月13日日曜日
コリングウッドによる自然(42): 18世紀(5)
2022年11月12日土曜日
ヴァレリー・アファナシエフの演奏論と「科学の形而上学化」
「あるものが『正しい提示』なのかどうかを決定する規範は高度に柔軟なものであり、相対的なものである。しかし、表象が元の作品に拘束されるという事実の意義は、この拘束が確固たる規範を持たないという事実によって減じられるものではない」
「ある意味において、実演とはおそらく再-創造である。しかしながら、それは創造行為の再-創造ではなく、創造された作品の再-創造なのであり、実演者が作品の裡に見出した意味と一致するかたちでの提示に至らなければならない」
2022年11月11日金曜日
コリングウッドによる自然(41): 18世紀(4)
2022年11月10日木曜日
コリングウッドによる自然(40): 18世紀(3)
2022年11月9日水曜日
コリングウッドによる自然(39): 18世紀(2)
2022年11月8日火曜日
免疫に関するエッセイの校正、真っ最中
このところ、免疫についてのエッセイ本の校正をやっている
まず注意するのは、事実誤認がないかどうかということ
これには神経を使うが、それでもどこかに誤りは忍び込むものだ
それをできるだけ少なくしようということだろう
それから、実際に書いている時には細部に入り込み、その中でいろいろ考え悩むこともあった
どこまで踏み込めばよいのか、どのように書けばよいのかなどなど
そこから抜け出て全体の中でその部分を読み直してみると、考えていた問題(どこまで、どのように)の扱い方が見えてくる
他の部分のレベルが見えるので、そのレベルに合わせて書けばよいのだと考えられるようになる
それは同時に、継ぎ接ぎのようになっていたところに流れが出るように書き変えることも要求する
まだもう少しかかりそうである